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2021年9月の20件の記事

9月の華光誌輪読法座

 朝、お参りが1軒。お彼岸に日程かあわずに、今日になった。車ではなく、近鉄に行く。時刻さえ合えばこちらの方が少し早い。お正信偈の後、短く一言をお話しして、あとは近況などをお聞きする。いろいろ味わうことはあったが、今は略。

 華光会館では華光誌(80-4号)の発送作業中だ。午後からの輪読法座に合せて3名の助っ人をお願いして、6名で作業中。人数がるあるから作業もはかどる。

 午後からは華光誌輪読法座。高取師の誌上法話「信心の落とし穴」の後半を読む。悟朗先生の『親指のふし』の引用と、ある同人のお言葉が随所に現われてくる。

最後にある『仏敵』の味わいをみんなで分かち合う。

「じゃ君に一つ譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこに大木が漂流してきたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります!」
「それでは君は、いよいよ獲信してはおらぬ……」
「それではアカン」と、皆が異口同音に言った。

をめぐる一段。

「まさに禅宗の公案みたいなものだね。伊藤先生が「掴みます」と言ったら、「あんたまだダメだ」と言われた。あれね、私に言わせると、海の中に浮かんでる私は溺れているわけではないんです。あれは、法の海、法海に浮かんでる。私は木が流れて来ようが、来まいが、もうそこに居るだけで安心なんだと。これで、この問題を解決したつもりですが、いかがでしょうか。よく、ザルを法水に浸けるというでしょう。それも、なんか似たようなことではないかなと。溺れてるっと聞くと、「溺れるものはワラで掴む」みたいに、つい頭で考えるけれども、あれは溺れているんじゃなくて、法水に浸かっているんだと。そう味わっております。」

 生死の苦海は、法海であって、法水に浮かんでいるのだというお味わいである。

 このときの法座で、同じことを高山のOさんが感話されて、

「逆謗の死骸はモノを言わない。掴むも、掴まないもない。ただ苦海を彷徨っていくだけだ」と味わわれた。

 一方は、法海に浮かぶと言われ、もう一方は、逆謗の死骸は苦海を彷徨うだけだと言われた。
 共に、掴む、掴まないという対立からは離れておられるが、さて皆様はいかが味わわれるか?

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教行寺永代経法要

 1年ぶりの教行寺の法座。有り難いことに、コロナ禍の中でもたくさんのお参りがある。華光からもこのお寺とのご縁のある方が何名かお参りされていた。
 
 朝座と昼座の2席のご法話は、「雪山童子と羅刹」、そして「餓鬼道」がテーマ。この二つを中心に、何度もお話させてもらっている。といっても、毎回、同じはなしではてくお話するうちに味わいが代わってきたり、別のポイントが見えてきたりするし、当たり前だが、別の人々が集うのでその場所、その場所の雰囲気が変わると、力説する点も変わっている。

 お集まりの皆さんのお顔をみている、「どうせ私みたいなものは」という気持ちで、仏様のお話を聞いていませんかと、思わず出てきた。いくら悪人がおめあてとだと言っても、私は熱心でもないし、仏教のことは分かっていないし、つまらないことばかり考えているし、もっとな真剣で、熱心な有り難い人がもおられるのだからと、せっかくのお救いを遠慮してませんか? それではあまりにも勿体ないです。そんなもののために、なんとか仏法聞いてもらいたい。迷いを離れてほしいと、仏様はお命をお捨てになてくださっています。どうか、「こんな私では」と思わずに、「そんな私がお目当て」だというお法りを聞いてくださいと言わずにおれなかった。最後に、餓鬼のスライドを観て、感想を分かち合った。小学生のお子さんが答えてくださる。他にも、数名の門徒さんか手を挙げてくださった。皆さん、自分のこととして聞いてくださっていたことが有り難かった。
 
 例年は、子供も一緒にお参りさせてもらうが、今日は華光会館で日曜礼拝がある。しかも法話を担当するというのだか、そのテーマが「雪山童子と羅刹」だ。いや、別の場所で、親子競演となったが、彼女はペープサート(厚紙の人形劇)まで作って、子供に分かりやすい工夫をしていた。しかも単なる説話ではなく、自分自身の体験が加わったという。幼少期、祖父の悟朗先生に「おじいちゃんはいまから、自分のいのちをかけてお話するから、いのちをかけて聞け」と幼い彼女に言って、法話をしたという。そんな仏法を喜び人にに出会ったことは、なんと宿縁厚いことであろうか。

 

 

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高山支部法座

 山岳地帯を高速道路で走っていると「トンネル6カ所連続」という表示を目にする。ぼくはこのシルバー・ウイークは、法座ウィークで、連続して6日間の、さまざまな形態の法座が続いている。2日間の「真宗カウンセリング」と聞法の集い。そして大阪支部法座。1日あけて、2日間の高山法座、週末の奈良の寺院布教まで続く。

 出張の宿泊法座は久しぶりだ。8月、9月上旬は、コロナの感染拡大で、 出張の宿泊法座はがZOOM法座に代わったので、緊急事態が発令中の京都から、同じく発令中の岐阜に移動も、新鮮だ。

 初日は、平日だったので、高山支部の皆さんが中心。そこに地元出身の同人か加わる。彼は、京都での3日間の法座からなので、ぼくと同じく5日間の法縁だ。

 活発だった高山も高齢化が進み、人数も少なくなった。諸行無常はさけられない。富山や北陸からの参加者ないと、顔ぶれも固定化されている。肉体的な衰えは仕方ないが、問題は精神的な衰えだ。講習会や研修会、カウンセリングの集いなどには関心のない方が多いのは寂しい。まだ老けるには早すぎる。これまでの法の相続の尊さを思うと、ご法のためにももう一頑張りも、二頑張りもしていただきたい顔ぶれであるが、どこかで留まっておられる勿体ない。

 法話は、餓鬼道について、今度の誌上法話にでる「疫癘の章」(勅命の章)を改めていただいた。2日目には、富山からの参詣者があって、少し賑やかになった。法は握ると留まる。信未信に関わらず、法の循環こそが真宗の生命線だ。

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大阪支部法座~余韻が形になる~

 連続して法座が続く。もう1泊京都に宿泊された方も複数あって、大半が3日間の法座をご一緒くださった方もある。皆さんの中でも、ずいぶんザワザワと動いているものが垣間見えた。頭で作ったものでないので取り扱い注意だか、それだけ動きだす可能性があって、面白い。ぼくの中でも余韻が響いていて、3日間が一つなりの法座のように感じられている。

 今日は、「修行者(雪山童子)と羅刹(鬼)」をテーマにしたが、やはりこの2日間の気持ちを伝えずにはおれなかった。

 結局、出会ったものが大きかったのだ。その教えを喜び、お伝えしようという「得道の人」に出会たのだ。そして、その方からお教えいただき、お聞かせに預かった。それは厳しい鬼の声だった時もあったが、如来の直説、真実の声だった。

それをいつ聴くのか。明日でも、明後日でも、いつかでもない。

 いま、ここで聞く。それ以外に、真宗の聞はない。

 その声は、羅刹でもいい、菩薩でもいい、そして仏様ならなおさらいい。声なき声が、誰の声なのかを問題ではない。身をなげて叫んでくださっている声ならば、その声に飛び込んでいくかしない。

  座談でも、皆さんが随分と動いて有り難かった。

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「サイコドラマと聞法の集い」

     講義に続いて、翌日は実践である。

    朝のチエックインに続いて、グループわけ。仏青のグループで一つ、後はアットランダムに二グループの3グループに分けた。一応、経験のある方が各グループに1~2名、役員さんに加わってもらったが、別にその方が司会をするというわけでもない。

 それぞれが課題を語り、また取り上げるテーマを話し合う。決して、押しつけや決めつけないで進めない。このプロセスが大切だ。テーマを決めれば、細かな設定はあまり作らないでおくし、当たり前ことだがリハーサルなどもしない。といって、行き当たりばったりというのではない。また、まったくかけ離れた話をするのではない。ある程度、自分たちの課題や問題点を取り上げるからだ。しかし、それをそのまま演じるのでもない。その時、その場での、つまりは「今、ここで」の、私を大切にして動いていくのである。「こうせねばならない」とか「こうしたほうが面白い」と動くではない。アウトラインの設定はあっても、あくまでも自分の今の気持ちを出して、動くことが一番大切なのである。
 
 あるグループの話し合いの場面を見学させていただいた。輪には加わらず、ドアの外に座る。皆さんが、自分のことをイキイキと発言されている。何かに向う目的が明確なので、皆さんの姿勢が違った。ただ、人間なので、やはりうまくやりたい、面白くやりたいという欲が動く。ドラマ、芝居と聞くと、あらすじがあって、シナリオがありセリフがある考えてしまうである。どうしても設定や登場人物を凝ってしまう。これは逆効果で、一人一人の動きが制約されてしまうのだ。

 各グループのサイコ・ドラマが始まる。やはり面白かった。思わぬ生の声が聴こえてくる。驚くような反応がある。まったく気づけなかった相手の立場に気づく。うまく進行せずに落ち込んだ方もあったようだ。その一つ一つを一緒に味わっていく。一々に触れられないのが残念だったが、その後の座談会での声は作られたものではなく、生の声がでているように思えた。

 短時間だったが、いいグループになったところもあれど、どこか消化不良、モヤモヤが残ったグループもあったようが、それもすべて含めて、今、ここの私のところで起きている事実である。そのことを存分に味わってもらい、分かち合ってもらいたかった。

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入門「真宗カウンセリング」講座

当初は、「念仏と黙想の集い」の計画だったが、緊急事態宣言下の中で車座で輪になって、大声で称名念仏することは避けたかった。

 それで、「壮年の集い」で要望があった「サイコ・ドラマ」が面白いのではないかと思った。ただそれだけ2日間では参加者が少ないだろう。ふと、真宗カウンセリングの入門的な講義をもつことを思いついた。と言っても単なる勉強形式の講義ではなく、自分自身の歩みに即した体験的な話をすることにした。

 初めての試みなのに、とてもワクワク感があった。始まってみないと分からないのに、なぜか不安感はなく楽しみでしかない。きっと今、一番話したいことだからだろう。
 ところか、急に、台風が進路を変えて、近畿に上陸するという。日本海を抜け温帯低気圧になるという予報が、外れたのだ。台風としては「弱い」のだが、今は警告を発する度合いが過度に増している。被害よりも、新幹線や交通機関が停まることを心配した。結局、台風の前に雨が少し強めに降った程度で、台風最接近中は、雨も降らず、風もなく、朝から交通機関も通常どおりで、皆さん、無事に出席することができて、よかった。

 ぼくとカウンセリングとの出会いは、それを体現された先達との出会いであった。同時に真宗念仏に出会い、歩む先達・得道の人との出会いでもある。具体的な人や言葉、場面を通しての思い出を、主に子供時代から青年期にかけて語らせていただいた。たった一言、たった一瞬の出会いでも、人生を決定づけるものに出会えたのことは、まったくもって幸せである。これか、少しでも皆さんの聞法や学びのヒントになればは願っている。
 
 予定では、初日の昼座が「講座」。夜座は、「こころの天気」を中心にした自己表現やワーク予定だった。しかしレジュメを作った段階で、昼座では収まらないことは分かった。自分の歩みだけで昼座を全部使うことになる。少しは「真宗カウンセリング」の理論面も話しておきたい。資料を探すうちに、本願寺のビハーラ研修会の講師として、「真宗カウンセリング」の講義と実習を受け持った時の資料に手が触れた。昔のことでほとんど忘れていたが、よくまとまっている。西光先生が作られて、それを3名で検討したものだ。新たに入力し直したが、その打ち直しの過程で、当時の出来事が甦ってくるのが不思議だった。またカウンセリングの基本の基本を確認するうちに、改めて、ぼくが人の話の何を、どのように聴いているのか。また自分の何に触れて、どう伝えているのか。そのことを再確認すると同時に、少しでも皆さんにお伝したかった。ぜひ、ご法を伝えたいと思う方には学んでいただきたい。また未信の方にとっても、自分の枠で聴くのではなく、自分のどこに触れていくのか。どのように語っていくのか。もうすでにその指針は示されているのだから、自分よがりの無駄な寄り道は勿体なさすぎる。もちろん、それを1度語ったからといって、すぐにすべて理解され、また身につくという代物ではないのは重々承知している。でも、参加された一人でも、二人でも、自らかの聞法の姿勢、伝道の姿勢を顧みて、悩みながらでも新たな一歩を踏み出してくださる機縁、もしくは刺激になればと願ってやまない。

 その意味では、ZOOMを含めると、支部長さん、役員さんの大半が、ご参加くださったことはほんとうに有り難かった。今後も、率直に、また遠慮なく発信を続けていきいたと思った。 

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今月はフリ-トーク

   真宗カウンセリング研究会の月例会では、、ロジャーズのいわゆる「必要十分条件」の論文を読み出した。今回が4回目だが、積極的に、担当を名のり出てくださる方があった。初めての発表てのでと、早くからレジュメを準備し打ち合わせも済んでいた。ぼくも楽しみにしていたが、急に帰省せねばならない事態が起こってきて、欠席されることとなった。その場合、ぼくがレジュメを読み進めていくことになっていたが、せっかくここまで準備をされてきたのだから、来月に延長してでも、担当していただくのがいいのではないかと判断した。皆さんの了解も得られたので、今月は、輪読から離れてフリートークでの月例会となった。

 ZOOMでの参加者もあれば、会場にお出でになった方もある。全員で一言ずつのチャックインをして、それから会場組と、ZOOM組に分かれた時間をもつことになったが、ZOOM組はさらに2グループに分かれたので、6~7名での3グループでのフリートークである。

 時間は1時間程度であったが、それぞれが今、感じていること、疑問に思っている聴いてもらいたいことなどを分かち合った。それはそれで、少しずつ深まっていくのを感じていたが、ぼくは、ZOOMの操作があったり、また華光誌が終わったばかりで、心は、週末の「真宗カウンセリング」の講義の方に重心が移っていたりして、からだはここにいても、少し離れたところにいる感じもあて、乗り切れなかった。それでも、奈倉先生が、皆さんの声を肯定的に受け止めて、また自然な引き出しをしてくださり、ずいぶん助かった。

 来月は、通常の月例会に戻って、輪読をすることになっている。楽しみにしている。

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蓮の蕾に

 映画館後に東寺まで歩く。

 途中の植え込みで蝶々が蜜を求めて飛んでる。彼岸も近いが、まだ日差しは夏だ。

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 東寺の蓮の華はもう終わって蓮の実になっている。よくみると、蓮の大きな葉のかげに隠れるように、一輪だけ蕾の蓮を見つけた。蓮は、仏教、特に浄土往生を象徴する華だ。周回遅れのようでもあり、また人知れず隠れるように咲いている姿が、市井にひっそり佇む隠れた念仏者のようで、どこか尊かった。

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「お池にはすちのお花が咲いた。
 はちすよい花、きれいなお花。
 どの子にあげよ、誰にやろう。
 はちすのお花をもらう子は もらう子は、
 み仏さまのかわいい子」
  南無阿弥陀仏

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『サムシングカンパニー 1995』

    華光誌作業を終えて、印刷所に渡すまでの合間に、みなみ会館で映画を一本観た。今日は、印刷所渡しの後も、ZOOMだが、8月分の会計の月次の説明があり、夜は、真宗カウンセリング研究会の月例会とスケジュールは詰まっている。

 映画は、いける時間帯にという『サムシングカンパニー 1995』 韓国映画をやっていた。男性優位、学歴社会の中で、セクハラと雑用に追われて、力が発揮できないでいる、優秀な高卒のOLたちが、大企業の有害物質排出の隠蔽工作に立ち向かう物語。韓国の有名企業を示唆する実話を元にしているようだが、1995年は韓国のグローバル元年と位置づけられていたが、当時の90年代の社会の実情がよく描かれていた。日本も同じようなもので、ファッションも懐かしかった。コメディタッチなので見やすかったが、なんとなく都合がよく進んで、どこか物足りなさも感じた1本。

 

 

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華光誌作業終わる

  法座が続く中で、華光誌の編集作業が進行していた。

 今月中の完成には、今日が印刷所に渡すタイムリミット。一応、昨日中に、作業は終わっていたので、今日は余裕があった。最後にザーと眺める。少し距離をとるようにボーと眺めることも、案外、有効なのだ。最後の最後に誤字発見。「コロナ禍」とするところが、「コロナ渦」になっていた。しかもタイトルである。同じく目次も間違っていたまま印刷されるところだった。

 今回は孤杉先生の誌上法話に感銘を受けた。今年の永代経で2座続けてお取次ぎいただいたのだが、その時も、まるで増井悟朗先生のお説教を聴いているかのようであった。しっかり要をご相続いただいていることもうれしかった。『疫勵の章』は別名「勅命の章』ともいわれる。前席では、私の悪業煩悩のお話であったが、紙面の都合でここはカット。後席は、同じ業でも阿弥陀様の方。阿弥陀様の大願業力のお働きについてである。ぜひ、ご一読いただきたい。

 また誌上感話も、新しいシリーズが始まった。巻頭言は「食法餓鬼」、聖教のこころは「いろは歌」の元になった無常偈を通した源信僧都のお言葉だ。いま、この二つをさまざまざな角度から法話で味わっているところ。

 発送は、9月28日を予定しているので、今月中にお手許に届くだろう

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「山伏済度」(3)~修験道~

 さて、本段は、山臥(山伏)の廻心なので、「修験道」も話題にする。といっても、ぼくもほとんど知らないが、3年前に聖護院のご門跡の宮城泰年猊下と、トラベルサライさんの主催の「インドの夕べ」という集いでお話を窺うことがあった。宮城先生に興味をもって、何冊か修験道に関する本を読んだ。特に、宮城泰年、田中利則、内山節著の『修験道という生き方』(新潮選書)が面白かった。一言でいうと、日本人の身近な存在でありながら、何も知っていないということだ。そして、これまで加持祈祷というまやかしで民衆をたぶらかせてきた弁円さんのというイメージが払拭された感もあった。
 
 身体性のもつ猥雑さを嫌い、定着しない行動力は、権力の規制の外にあり、そして民間習俗ではあっても民衆との距離は近いことは、権力にとっては邪魔な存在で、何度も規制の枠にはめ込もうとし、近代には弾圧の対象になって禁止されている。民衆のために、民衆聖として、日々の生活に密着している。加持祈祷に加えて、薬草などのいわゆる漢方薬にも精通していて、民衆にとっては、遠く堅苦しい教えより、身近な頼りになる存在だということだ。
 
 修験道とは、山へ籠もり、厳しい修行を行って悟りを得ようとする日本古来の山岳信仰で、古来の土着信仰に仏教が融合した日本独特の宗教、道教の仙人思想も影響があり、修験宗ともいわれる。「修行して迷妄を払い験徳を得る修行してその徳を驗(あら)わす」(普段の会話でも、「霊験あらたか」などと身近だ)ことから「修験者」とか、山に伏して修行する姿から「山伏」(山臥)とも呼ぶれる。日本各地の霊山を修行の場とあた、厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践面も強い。修行の場は、日本古来の山岳信仰の中心の大峰山(奈良県)や白山(石川県)などの「霊山」。中でも熊野三山(和歌山県)への信仰は、平安時代中期から、天皇や貴族が競って参詣し隆盛を極める。(熊野信仰は、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要。これを勧請した九十九王子が有名。『御伝鈔』下巻第五段の平太郎の熊野詣にも関連する)。他にも、豊前の彦山、伯耆の大山、伊予の石槌山、加賀の白山、駿河の富士山、信濃の戸隠山、上野の日光山、出羽の羽黒山、常陸の筑波山など。弁円さんの筑波山もその一つなのだ。また、神仏習合なので、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られ、表現形態として権現(神仏が仮の姿で現れた神)現われるが、もっとも有名なのが、役小角(役行者)が吉野山中で感得したという、蔵王権現(過去の釈迦仏、現在の千手観音、未来の弥勒弥勒を念じ、三体が融合した日本独自の仏)であろう。

 その修験道の歴史は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したといわれる。役小角は、『続日本史』に験力と流罪が記載。『日本霊異記』にも伝承。大和国葛城郡の出身で、葛城山で30年の苦行、摂津の箕面山で孔雀明王の呪力。吉野山中で、蔵王権現を感得する。終生を在家のまま通したので(民衆聖)、いまも在家主義が貫いている。

 修験道が盛んになるのは平安時代。その源は、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の広まりと関連する。神社の境内には「神宮寺」が、寺院の境内に鎮守としての守護神の社が建てられ神仏習合が盛んになる。その中で、密教(天台宗・真言宗)での山中の修行と、日本古来の山岳信仰が結びつく形で、「修験道」という独自の信仰が成立する。

 鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立する。密教との関わりから、仏教の一派と見なされる。江戸時代には、修験道法度が定めれ、真言宗系の当山派(真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山)か、天台宗系の本山派(天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山)に属することを義務づけられ、両派を競合させた。
 修験道への弾圧は、明治期に強化される。明治元年に神仏分離令、明治5年に修験禁止令が発令、修験道は禁止。里山伏(末派修験)は強制的に還俗。廃仏毀釈により、修験道の信仰も破壊された。薬事法で漢方薬などの禁止も痛手となる。その後、脈々と水面下で信仰されるが、本格的に復活するのは終戦後というから、その歩みをみるだけでも興味深い。
 
 といっても、真宗的にみても、現世の救いであったり、超えねぱならない面もあって、それも含めて味わうと弁円さんの廻心はまたくもって尊い。

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「山伏済度」(2)~山臥・明法房~

 さて、主役は、有名な山伏弁円である。山臥・明法房が、弁円と表わされるのは江戸時代の『正統伝』に、山伏の名が「弁円」と記載されて、このエソードが有名となるからだが、もともと『御伝鈔』にはその名はなく、聖人が命名された「明法房」と出ているだけだ。

「播磨公弁円」と名のり、筑波山地の修験道を束ねる存在であった。聖人と出会いは、聖人が49歳、弁円が32歳の頃か?(実際の往生の歳とは合致せず)。回心の後は、地域の門徒の中心的な弟子の一人だったことが、聖人のお手紙から窺える。二十四輩の19番目、上宮寺の開基。建長三(1251)年にご往生。68歳頃か?。兵庫県宍粟市山崎町にも墓があるのは、母方の出生地であるといわれる。

 廻心懺悔の後に詠まれたという歌には、深い味わいがある。

 「山も山、道も昔にかわらねど、かわりはてたる わが心かな」

 また、親鸞聖人の『御消息』(お手紙)には、重複した内容だが、明法房(弁円)の往生のことに関して、何度も言及されている。それをすべて出すと、。

一、「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」(第二通・737)

*これは、建長四年(聖人80歳)の日付のお手紙で、その前年(つまり聖人79歳)に往生されている。大意は、
「明法房が往生されたこと、驚くべきことではないが、ほんとうにうれしいことだ。また鹿島・行方・奥郡(いずれも常陸国で、聖人の布教地が窺える)の往生を願う人にもうれしいことだ。」

二、「この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。」(第三通・742)

*「その様子を、明教房というお弟子が上洛してきた時に、明法房のご往生のことを親しく聞くことができたが、ほんうにうれしいことだ。」

三、「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。(中略)
 明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。」(第四通・742)

*「明法房が往生の本意をとげられたことは、常陸国の往生を願っている人たちにとっても、よろこばしいことだ。往生は、凡夫のはからいでは超えられないのだ。(略)
 明法房が浄土往生されるのも、かってはとんでもない誤った考えをもっていたものを翻して回心されたからだ」。この後に造悪無碍について誡められる。

四、「明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふべし。」(第五通・745)

*「明法房の往生のことを聞きながら、その意志を疎かにするような人達は、念仏の仲間(御同朋)ではない」。明法房の往生をもとにして、造悪無碍の人々を強く誡められている。

 つまりとんでもない間違った思いを持っていたものが、聖人と出会いによって、廻心懺悔して弥陀の本願に帰す身となられたことは、常陸国の人々にとっても大きな存在で、聖人も、当時の造悪無碍の間違った道を進む人々を戒め、正意安心の身に翻ってほしと、明法房の往生に即して切々と訴えておられるのである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』第三段「山伏済度」(1)

 今月の『御伝鈔』は下巻 第三段「山伏済度」の段。下巻は七段に分かれるが、利他の徳、機の真実を顕すとみていいが、その中心、この段にある。親鸞聖人の対人的態度を窺う上でも、意味のある一段で、この視点は真宗カウンセリングの独特のものであって、この段の真意をさらに深まりをもって味わうことができた。

 まず「分科」で、この段を四段に分けて窺った。

 第一段は、「聖人 常陸国 ~ 信順の族はおほし」。
 「稲田での布教」の段で、親鸞聖人が稲田草庵を拠点に専修念仏(雑行雑修自力の行を捨てて、一心に本願を信じて専ら念仏すること)を弘められると、誹謗する人は少なく、信順する者が多かった。

 第二段は、「しかるに一人 ~ うかがひたてまつる」
 「害心の山伏」の段で、一人の山伏が、念仏が弘まることをよく思わず、聖人を害せようとした。

 第三段は、「聖人 板敷山 ~ 奇特のおもひあり」
 その山伏が「板敷山での待伏せ」の段で、聖人が往来される板敷山で何度も待ち伏せたが、いつも空振りに終わった。そこでいろいろ思いを巡らしていた。

 第四段は、「よって聖人に ~ これをつけたまえき」
 「山伏(明法房)の帰依」の段で、思いを巡らせた結果、直接、聖人に会うために武装して草庵を訪れたが、聖人の尊顔を触れた瞬間、その心を懺悔させられた。これまでの鬱憤を吐き出しても、聖人は驚かず受け止められた。その場で山伏を捨て、本願に帰依。聖人から明法房との名を賜り、後にめでたく往生の素懐を遂げらたのは、不思議なご因縁である。

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広島支部もZoom法座

 広島カウンセリング、九州支部法座に続いて、広島支部法座もZOOM開催となる。九州支部の朝座と同じく、餓鬼についての法話。『往生要集』の現代語訳を読み、それにもとづいたスライドを見てもらった。やはり餓鬼の生々しい映像に感じる方も多かった。

 座談会に入って、食法餓鬼をテーマにした次号の巻頭言を読んでもらう。九州支部のあとで、再考し書き換えた原稿だ。巻頭言は、字数が決まっているので、増やした分だけ削らねばならないが、その分、テーマが明確になってきたのではないか。食法餓鬼とは黒いからだで、雨のように泣きながら野を越え、山を越え,法座を求めて走るまわる。でもなかなか法座に出会えないが、やっと思いで法の声を聴いていのちをつないでいるという。もっとも今日の食法餓鬼は、自動車や新幹線で移動して、ホテルに連泊して法を求めているから、随分、贅沢になったようだ。

 ZOOMでも座談会は、面白かった。(頭で作った)正解の答えを合わせをするような質疑や一言が続くなかで、身をかけたところから発せられる言葉は、響いてくるのがよく分かった。

 最後の難所は、身を捨てる体験に出ないと、その真意は得られない関所だ。しかしそれは何も頭を抱えて正解を求める未信者だけに向けて言っているのではない。法を喜んでいると自称している人の関わりのところでもあり、また自分自身への自戒を込めた言葉でもある。そんなことをZOOMでのやりとりの中でも感じたので、促しや問いかけを発した。うわべを飾るのではなく、もう一歩踏み込んだ法座、座談会になればと願っている。 

 

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通夜~素晴らしい法名~

 華光の先輩同人が、また一人ご往生された。ZOOM法座を終えて、大阪で開かれたお通夜にお参りする。仏法聴聞の上でも、ご相続やお勧めの上からも、またカウンセラーの資格を取得された学びの上からも、華光同人のお手本のような存在であった。

 世間的に言っても、生きざまも、その死にざまも、まったく見事な100歳での大往生だ。しかし真宗の上からはもっと深い意味がある。長寿であったことや、死にぎわの見事さではなく、平生、元気を時に、しっかりとお念仏に会われて業魂のお葬式をすませたお方、つまり平生業成の人が、ついに往生の素懐をとげられたのであるから、ほんとうの意味での往生「おめでとうございます」である。

 法名は、「諦聴院 釈尼聰耳」。いやこれには参った。これほど見事に、故人の生きざまを現わした法名があろうか。

 まず院号の「諦聴」とは、釈尊がこれから大切なご説法が始まるぞ「諦かに聴け」と、キーとなるお言葉を発せられる。たとえば、『観経』第七華座観では、難しい定善のご説法が続く中で思わず居眠りをされていた韋提希夫人に、お釈迦様が、「諦聴(たいちょう)、諦聴」と揺り起こされる。「諦(あき)らかに聴け、諦(あき)らかに聴け。これから汝がために苦悩を除く法を説くぞ」と宣言されると、お釈迦様が消えて、目の前に阿弥陀様が立ち上がられるのである。

 また法名の「聰耳」も見事だ。俗名の聰の一字に耳を加えられたものである。これは聖徳太子の別名である「豊聰耳命(とよさとのみみのみこと)」から「聰耳」とされたのだろうが、また他力によって頂いた聴く耳を現わす言葉ではないか。それにしても、仏法を聴聞の上でも、またカウンセリングで聞く耳を育まれた故人には、最高のご法名である。

 ご法話も、故人に対する種々の暖かい思い出と共に、一番大切なのは、ほんとうに仏法を喜ぶ身となったか。もしそうでなければ、なんのための人生なのか。空しすぎるぞ。故人は、仏法を決して押しつけたり、厭味にもせず、それでいてブレることなく、要所、要所で語られた仏法聴聞へのお心を、時に厳しくお伝えくださった。参列のお子さまも、お孫さまもすべてが、仏の子供大会でご縁のあった方々で、再会が懐かしくもあった。同時に、ぜひもう一歩出たご聴聞を願わずにはおれなかった。南無阿弥陀仏

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「仏書に親しむ会」のこれから

 「真宗安心一夕談」に入っている。第二章の第十八願文、註1を読む。質問は出ても、この文章のおさえや、展開はない。前回から丁寧に質問に答えている。今回もそうだったが、詳細な説明(ほとんど法話)をすると、皆さんは喜んでくださる。しかし、「安心一夕談」そのものからを読みといたものかというと、少し違う。

 もともとこの集いは、「伝道研究会」という枠だった。先生方や司会役の方、もしくは意欲的な方が、教義でも、また伝道・布教の観点で、実践の立場から意欲的に学び、提起したり、意見交換する集まりだった。

 それが長年の間に参加者が固定化し、しかも2、3めいなってしまったので、近郊の同人で意欲のある方に門戸を広げることになった。悟朗先生の「安心論」を読み進めていったが、ぼくからの解説、もしくは法話という雰囲気で終始して、研究会という名目は意味を失っていた。それはそれで意味はあったが、一方的に講話でも、難しいという顔で聴かれて、最後の感想もほぼ毎回同じとあっては、ぼく自身が楽しくなくなってしまった。

 区切りがついたところで、新しい法座の提案をした。もっと皆さんの身近で、共に味わえ深められるような集いになるにはどうすべき。相談した結果、「仏書に親しむ会」として再出発することになった。、伊藤先生の『伝道精神に燃えよ』から始めて、『仏敵』『善き知識を求めて』を音読して味わうという形式をとっていた。ぼくにとっても、丁寧に読む進めることで、気づきをもたらしてくれたし、皆さんもそれぞれのところで参加されていたようだ。

 『善き知識を求めて』を終えて『悟痰録』に進む予定だったが、講習会で取り上げた『真宗安心一夕談』を希望する声があがった。未消化のままで終わったことが残念だといわれた意図はよくわかった。ただ本会の趣旨に合わないので、その旨をあらためて申し上げたが、皆さんから特に異論もなく、『真宗安心一夕談』に取り組むことなになった。そうなると、今のメンバーだけではかなり荷が重いので、ZOOMで参加者を募ることにしていい面もあった。事前の勉強会を行うなどの積極性もあったが、やはり、このメンバーでは無理があると判断した。といって、せっかくやり始めた以上、途中で終わるのはと思って、進行を早めるのも手だったが、それも勿体ない。

 ということで、率直、思いを述べて、皆さんも率直な思いを語ってくださった。いまのままを臨む人や、どららでもいいという人もあったが、予想とおり負担だったり、難しくてしんどいと思う人も多かった。続けるにしても、詳細な解説入りが前提だったので、熟慮の結果、一旦打ち切って、10月の新年度からは、『悟痰録』を読むことにした。

 その変わり、別にZOOMのメリットを生かした 新「伝道研究会」を立ち上げてはどうかと思った。ただし、今のぼくの状況では手一杯なので、誰かお世話役が名のりをあげてくださるてもらいたい。しっかり事務局を作らないと、すべて一人でやらねばならなくなる。今は、そんな集いが多いので、どこかにしわ寄せをくるとの思いがある。これはまた皆さんと相談の上、進めていくことになるだろう。

 

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九州支部もZoom法座

 計画では、広島から直接、九州(大分もしくは福岡)に向う予定だったが、コロナ感染拡大でそれもなくなった。九州支部はコロナ感染拡大を理由に中止にならないと思っていたが、会所がコロナの影響を受け直前に中止が決定。第5波の感染は身近に迫っている。支部長さんに提案してZOOMで開催してもらう。参加できない方もあるが、九州組に加えて、広島や名古屋、横浜、高山、そしてアメリカからの参加もあり、Zoomでもいい法座になったのではないか。

 午前中は、餓鬼について、『往生要集』の現代語訳を読み、それにもとづいたスライドを見てもらう。これはZOOMならでは手法で、餓鬼の生々しい映像に感じる方も多かった。餓鬼の中でも食法餓鬼を問題に、次号の巻頭言も読む。「くれ、くれ」と求めるばかりではなく、一度は身を差し出せとの一文に、では私の何を差し出すのか。みんな頭で作った正解が並べられる。が、ここは身を捨てる体験に出ないと、その真意は分からない関所なのだ。いくら正解や思いを語っても、意味はない。

 午後からは、「まったくわたしくなし」のテーマにする。今、ぼくの中で、一番響いてるところであり、皆さんに聴いてもらいたいところだ。

 座談会のやりとりでは、頭でっかちになる人、自分の感情に引きづられる人、正解を言って満足する人、自分の思いや考え方の表明ではなく、自分を開かないと面白くない。こう思う、こう考えるだけなら、「わたくしあり」なのだ。それがなん役に立たない、法に照らされたら、どんな奴が浮き彫りになってくるのか。その一点で聴くしかない。そして一度、死んでしまったらそれで終わる。自力が死ねば、もう聴き間違うこともできないのだ、という法話だった思うが、「聴き間違わないようにしっかり聴きます」という程度の表明が出る。いやいや、「これまでも、これからも、私は聴き間違いしかしない。その方向の聞法は自己満足にすぎない」と、厳しくお伝えした。

 でもこれも一例。自称獲信者の方でも、感情のところだったり、味わいのところだったりでしか、仏法が喜べないので、そのあたりの自己満足の味わいには、次々と突っ込んで指摘しまくった。もしかすると、対面法座よりも、遠慮なく伝えられたのかもしれない。その意味では、Zoomだったが、意味深い法座となったのではないか。

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ZOOM広島真宗カウンセリングWS

  9月の広島での真宗カウンセリングワークショップ。その直前に広島にも緊急事態宣言か発令された。世話人の間では、感染対策を十分にとれば開催はできると考えていたが、参加者の中にはさまざまな事情があって欠席が増え、今回は中止と決めた。緊急の中止は西日本豪雨以来。、致し方ないとは思うが、たいへん残念だった。

 代わりに、ZOOMでの開催に移行するので、案内文を急きょ作成した。この1年半、ZOOM法話や座談会にも慣れてきた。少人数での座談会の経験もあるが、2~3時間程度で、今回のように、朝、昼を通して7時間を2日間行うエンカウターグループは初めてだ。世話人を含めると10名も参加があり、初めての方もおられる。大半が1年に1度、ここでお会いする方々である。この長時間のZOOMグループはぼくにも初の試みで、うまくいくかどうか心配だった。ワークショップではなく「交流会」と名付けて、取りあえず1日だけの開催として、翌日の開催は、皆さんと相談の上で決めることにした。

 緊張しながら早めにバソコンの前にスタンバイ。皆さんがうまくアクセスできるのかの心配もあったが、不慣れな方も揃われて、スタートできた。ただ一番難しいのは、場の雰囲気を肌で感じることができないことだ。画面の上と実際に車座に座るのでは、その味わいはまったく違う。おかしなことだが、自分の顔が見えるのがZOOMである。よほどのナルシストでなければ、これが苦手だという人が多い。でも実際は悪いことではない。自分が嫌であっても、この顔、この姿こそが、相手の目に映っている私そのものなのだ。だから自分が、どんな顔で、どんな姿勢で、相手の前に立ち、接し、聞いているのかを教えていただける、たいへん貴重な機会となっている。この経験は、実際の対面にも生かされるのではないかと思っている。

 また、ZOOMのグループがうまくいくかという心配も、杞憂に終わった。ZOOMでも、内容の濃厚な集いとなった。午前中の2時間だけでも十分に堪能できた。すでに長年の関係性が構築されていること、そしてその信頼関係の中で、自分を開き、率直な自己表明がなされたこと。それを参加者が、受容的に、また共感的に関わったこと。ぼく自身の気づきのところでは、聞くことは、「受容的に聞かねばならない」「共感的に聞かねばならない」という不自由なことではないのだ。いま、目の前で自分を表明しようという方があれば、その方を尊重し、その場に身を任せて、お聞かせ頂くだけだ。その話しに身を任せていると、まったく不思議なことに、一瞬であっても相手の方の人生の一部を共に過ごさせてもらった喜び、そして暖かい、豊かな気持ちが満ち満ちてくる、不思議があるのだ。以前から課題にされていた、親しい方を亡くされたお話であったが、ほんとうに「よかったですね」と、言わずにおれない気持ちになり、それを率直に表明させてもらえた。そこには、これまで1年に1度だけであっても、何年かの間で築かれてきた関係が大きい。たとえ毎日顔を合せていても、うわべの付き合い、見せかけだけのつきあいでは得られない、深い出会いを経験させてもらったきたかもしれない。しかもその方の、飾らない、率直な態度は、外の方に伝播して、自分のところを開いた尊い話が続いたように思った。たまたまた昨年からこの1年間の間に、親しい方との別れを経験された方が多かったことも、影響があったのだろう。

 おかげでZOOMでもそれなりのWSが行へ、ほんとうによかった。来年に向けて、定期的な継続WSも開くことが決定。楽しみである。

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真宗カウンセリングと聞法の集い 案内 (2)

 真宗カウンセリングを中心にした聞法の集いの案内の続き、補足です。

 【サイコドラマとは?】
★創始者のモレノ (1892年ウィーン生) が、1922年に始めて、アメリカ発展します。
☆Psychologyの「サイコ」=「心理」と「ドラマ」で、心理劇となりますが、行動の 面からみれば即興劇です。
★意図=私たちの人生は様々な人間関係が作り出す数々の出来事で成り立っています。 それは私たちが人としてのあり方を学ぶために、社会の中で体験していく重要なプ ロセスといえます。サイコドラマは、私たちが抱えている様々な問題の整理や、新 しい視点による解決の方向を探り、新たな一歩を踏み出す機会を創り出します。
☆華光会では、昭和40年(1965年)頃から法座で取り入れられ、仏青大会では、定番 の名物企画でした。膠着したマンネリ聞法や、観念的な聞き方を打破するために、 身をかけた体験的な聞法として実施してきました。
★演技者自身が、立場を換えることで、客観的に自分の言動を反省する手がかりにな り、日ごろ気づかぬところからの問題提起や、人間関係での気づきやめざめ。さら には、聞法の方向転換が起こることもしばしばあります。
☆体験的聞法では、心の中の動きを体で表現していきます。
 耳 が中心の法話の聴聞に、
  +口 が加わった座談会。さらにサイコドラマの観客は、
   +目 が加わり、さらにドラマの演者は、
      +体 わが身をかけた、体験的な聞法を目指しています。
★知識理解や感情発散に留まらず、身をかけて聞くのが本来の聞法です。

【こころの天気とは?】
★スクールカウンセラーの土江正司先生が創始された、今の私のこころを天気として感じて、絵(または言葉)で表現する、シンプルでありながら深い技法です。

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真宗カウンセリングと聞法の集い 案内 (1)

   真宗カウンセリングと聞法の集いの御案内
  
 真宗カウンセリングを中心にした聞法の集いを開催いたします。本来、真宗の聞法は、身をかけて聞くものです。ところが、儀礼が中心になったり、知的理解に留まったり(もしくは逃げたり)、感情の表出(カタルシス)の満足で終わる場合もあります。改めて、この身をかけた体験的な聞法の場を、参加者で創造していきたいと思います。といっても、特別に難しいことをするのではありません。それぞれの悪業の身ひとつをご持参くださり、その身をかけて聞かせていただきましょう。

 冒頭、私が考える「真宗カウンセリング」((Dharma-based person-centered approach) に関する入門講座を持ちます。「カウンセリング」というニュアンスから生まれるさまざまな偏見が、少しでも解ければと願っています。その後、よりよい自己表現のための「こころの天気」の実習、メーンは、複数の方からのリクエストで、グループでの「サイコドラマ」です。それを踏まえて、聞法(座談会)の時間もとりたいと思います。初めての方や初心の方でも参加できるように工夫した進行を行います。皆様のご参加を心からお待ちしております。合掌  

   【参加要項】           

 日 時:2021年9月18日(土)13時(受付)13時30分~21時30分
           19日(日)9時~16時30分
 場 所:華光会館
    京都市南区西九条東柳ノ内町22(近鉄十条駅徒歩2分)
 講 師:増井 信師
 研修費:10,000円(同人会員8,000円)(1日参加は半額)
   (25歳以下のユース世代 一般=3,000円 同人=2,000円)
    当日、受付でお支払いください。
 〆 切:定員25名で先着順〆切 (現在、21名で、残り4名です)
 申込先:華光会館まで。Eメール(keko-kai@nifty.com)、電話(075-691-5241) 又は華光会ホームペーシからお申込みください。 

   【Zoom配信】 

 Zoom配信=1日目昼座「真宗カウンセリング入門講座」をZoom配信いたします。18日(土)13時30分~17時

 Zoom参加費=3,000円(事前振込制)
       「宗教法人華光会 01060-8-26777」

 Zoom申込方法=専用アドレス(keko18kouzen@gmail.com) にお申込みいただき、上記の華光会の郵便振替口座へ参加費をお振込ください。9月16日(木)必着〆切

 

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