9月の華光誌輪読法座
朝、お参りが1軒。お彼岸に日程かあわずに、今日になった。車ではなく、近鉄に行く。時刻さえ合えばこちらの方が少し早い。お正信偈の後、短く一言をお話しして、あとは近況などをお聞きする。いろいろ味わうことはあったが、今は略。
華光会館では華光誌(80-4号)の発送作業中だ。午後からの輪読法座に合せて3名の助っ人をお願いして、6名で作業中。人数がるあるから作業もはかどる。
午後からは華光誌輪読法座。高取師の誌上法話「信心の落とし穴」の後半を読む。悟朗先生の『親指のふし』の引用と、ある同人のお言葉が随所に現われてくる。
最後にある『仏敵』の味わいをみんなで分かち合う。
「じゃ君に一つ譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこに大木が漂流してきたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります!」
「それでは君は、いよいよ獲信してはおらぬ……」
「それではアカン」と、皆が異口同音に言った。
をめぐる一段。
「まさに禅宗の公案みたいなものだね。伊藤先生が「掴みます」と言ったら、「あんたまだダメだ」と言われた。あれね、私に言わせると、海の中に浮かんでる私は溺れているわけではないんです。あれは、法の海、法海に浮かんでる。私は木が流れて来ようが、来まいが、もうそこに居るだけで安心なんだと。これで、この問題を解決したつもりですが、いかがでしょうか。よく、ザルを法水に浸けるというでしょう。それも、なんか似たようなことではないかなと。溺れてるっと聞くと、「溺れるものはワラで掴む」みたいに、つい頭で考えるけれども、あれは溺れているんじゃなくて、法水に浸かっているんだと。そう味わっております。」
生死の苦海は、法海であって、法水に浮かんでいるのだというお味わいである。
このときの法座で、同じことを高山のOさんが感話されて、
「逆謗の死骸はモノを言わない。掴むも、掴まないもない。ただ苦海を彷徨っていくだけだ」と味わわれた。
一方は、法海に浮かぶと言われ、もう一方は、逆謗の死骸は苦海を彷徨うだけだと言われた。
共に、掴む、掴まないという対立からは離れておられるが、さて皆様はいかが味わわれるか?
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