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『御伝鈔』下巻第二段「稲田興法」(1)

  『御伝鈔』下巻第二段は、越後より関東の常陸国稲田に移られて、ご教化される段である。本文は短く大意がそのままであるが、「親鸞聖人は、越後より、関東は常陸国稲田(現在の茨城県笠間市稲田町)に移られる。その粗末な庵で、世俗を離れてひっそりと隠れ住んでおられたが、聖人を慕う貴賤・道俗が押しかけて、ご教化が行われた。まさに、仏法弘通の願いを果たし、また多くの衆生を利益するという宿念(昔からの願い)が達せられた。 親鸞聖人は、「昔(法然門下時代)、六角堂の救世観音から告命された夢と少しも違わない」(上巻第三段)と仰せになった。」
 というのである。

 『御伝鈔』には触れられない部分で、聖人の関東移住の理由などを、奥方の『恵信尼消息』などで補って窺った。覚如上人が26歳で『御伝鈔』を書かれた時には、まだ『恵信尼消息』を御覧になっておられない。

 源頼朝が鎌倉幕府を開いて約30年後。政治の中心が関東へ移りつつあっても、大半は辺鄙な農村地帯で、浄土教もまだまだ未開の地の関東に移住されたのはなぜか。伝絵では、お弟子方との旅の絵であるが、実際は、奥方の恵信尼公や子供たち(当時は三名(四名説もあり)、三番目の子、信蓮房はまだ3歳)と一緒の家族連れでの移住である。しかも平坦な道ではない、山越えき厳しい道を通って、なぜ関東を目指されたのだろうか。ひ残念ながら、ハッキリした証拠はなく、すべて推測でしかないが、次ぎのような諸説が語られている。(つづく)

 

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