« ここが難しい | トップページ | 調律 »

七回忌法要のご法話

  父の七回忌法供養法要を勤める。平日の昼間にも関わらず、同人の方も多数お参りくだった。2016年8月7日に、九十歳を一期として往生の素懐をとげた。それから6年が経過し、お参りの中には、父とのご縁がまったくなかった方も増えてきている。

 お正信偈のあと、ご法話をいただく。だいだい以下のようにお聞かせていただいた。

 日本では、戦前まで長らく「家」制度が続いてきた。戸主-父親、そして長男に引き継がれ、家産を増えし、そのために家業を継ぐ。その中心は、常に成人男性であって、女、子供は付属品のような立場であった。個人とうより、あくまでも「家」の宗教としての「浄土真宗が守られたきたといえる。

 それが第二次世界大戦で、男性、家長中心の「家」制度は否定された。が、法律が代わっても、長らく人間に身にしみついたものは、簡単に変わることはなかった。いまでもその残滓で、女性の地位は低く、男性中心の社会であることに違いない。しかし、徐々にはであっても変化はしてきて、特に都市部では「家」制度は崩壊している。それは、これまでの社会の仕組みが変わるだけでなく、家族や社会の歴史もまた忘れられていくことでもる。個人が立つといえば聞こえがいいが、実際は、孤立化したり、ひとりで生きて行けるという錯覚を生み出す。社会が複雑になればなるほど、多く人達に支えられているという部分が見えづらくなる。また自意識過剰というのか、私の思いが一番大切、それだけで完結していけるという錯覚に陥っていく。
 また歴史的なつながりがなくなると、今しか考えない、現世中心主義となる。
 そんな中で、浄土真宗の布教も変し、「いのち教」だったり「きづな教」だったり、「こころ教」だったり「おかげ教」だったりして、葬儀の法話は、「また会える教」に成り下がって、小手先だけの教えに留まっている。

 しかし、「仏教は無我にて候」なので、けっして、私の思いが一番大切で完結するのではない。浄土真宗では、「自力を捨てよ」と言われるのである。
 また、『重誓偈』に「我建超世願」とあるが、阿弥陀様の願いは「超世」であって、それは世を超えるとものであり、また人間の常識を超える願いでもある。現世の、その時、その時ではなくて、三世を貫く真実であり、そこを「後生の一大事」と打ち出さしていくのが、浄土真宗である。

 後生の一大事と、自力他力の廃立、それが平生の時、信の一念で決まるのである。増井先生は、その一点をブレルことなく、厳しくお取り次ぎくださった。その増井先生も、最後はすべてが剥がされていかれた。称えていたお念仏までも、結局は剥がされていくのである。

 「念々称名常懺悔」という善導様のお言葉がある。常に懺悔せよというのではなく、念々の称名念仏こそが、常に懺悔なのであるということだ。これが、今年六月に亡くなった母が親からの遺言としての常の言葉であった。

    

|

« ここが難しい | トップページ | 調律 »

法座と聞法」カテゴリの記事