ここが難しい
「こころの勉強」がテーマ。
学校にはいろいろな勉強がある。
幼児から、小学生、中学生、高校生、大学生と参加者がいたので、それぞれがどんな勉強をしているのか尋ねる。成長に合せて、段階的に課題を習得して、次ぎの課題に取り組んでいくことがよく分かる。
もちろん勉強にもいろいろな種類がある。知識を得るだけではなく、理解や思考して、考え方を身につけたり、技術を得たりする。スボーツでもそうだ。同じ競技でも、速さ(スピード)を求められるものもあれば、長く(持久力)が必要なものもある。強さが大切だったり、正確さや集中力が一番なものもある。体力、技術、メンタル(精神面)と、一外にいえるものではない。
それでも、大きく分けると、
頭の勉強は、賢くなるためにするものだ。
体の勉強は、強くなるためにする。
芸術関係なら、うまくなるためにするのだろう。
ということになる。では、こころの勉強とは何か。その目的は何か、そしてその手段や方法は? 何を、どう勉強すればいいのだろうか。
一般的に、こころの勉強とは、心をきれいにすること。正しく、立派に人になることを目指しているのだ。
そうだとしても、それをどう評価し、実践するのか。頭の善し悪しや理解の有無は、テストや受験で評価できる。運動は、数字で進歩を現わせる。芸術の評価は難しくても、上手とか下手の評価が数字で出される。しかし、「こころの勉強」を評価はできない。一昔前なら、善行(親孝行とか、社会に貢献した)が表彰されたものだが、行いとして外に表れたものであって、ほんとうのこころではない。「こころがきれいな人だ」はどこまでも主観であり、こころをきれいにする方法もないではないか。
それでも「こころの勉強」と言葉にすると、なんとなく分かった気にはなる。でも実際は何も分かっていないのだ。
しかもだ。浄土真宗での「こころの勉強」とは、「こころきれいにする」ことでも、「いい人間になる」ことでもない。それでも、多く人が、ご聴聞とは、至らない自分を知らされて、少しはましな人間になることを目的にしてはいないか。もしくは知らないことを教えて頂き、少しでも正しい教えを身につけることが大切だと思ってはいないか。
でもそれはまったく浄土真宗の聴聞ではなく、役立つどころか、聴聞の妨げになるのだから、まったく恐ろしい話だ。
もし浄土真宗にこころの勉強があるならば、愚かな自分、至らない自分、恥ずかしい自分を、仏様の鏡の前にたち、ありのままに教えていただくことだけである。そして、賢くなるのでも、立派になるのでも、きれいになるのでもない。ただひたすらにほんとうの自分=仏様の目に写った私を聞かせてもらうだけなのである。
なんという常識を超えた教えだろう。
ここまでくると。突然、話が飛躍したと感じる。私たちの常識を超えた教えだからだ。むしろ、「自分を知らされ、少しでも努力し頑張って、よりよき人になりましょう」といわれるほうが、ずっとわかりやすいのに、そうはいかないのが真宗の難しさ、厳しさがある。
要、ほんとうのことをほんとうと聞かせてもらうことだ。「アホ」を「アホ」と聞く、「悪人」を「悪人」と聞く、「地獄行き」を「地獄行き」と聞く。ただそれだけだ。
でもね、そこが難しい。「あほ」に「あほか!」と指摘すると、へそを曲げ、抗議されるのがおちだ。みんな本当に聞いていない。南無阿弥陀仏
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