« 8月は東京ZOOM法座へ | トップページ | 『御伝鈔』下巻第二段「稲田興法」(1) »

食法餓鬼

 食法餓鬼

 私が生きるということは「食べる」ことである。それはすべての生き物の第一の優先順位だと思っていた。しかし、力の弱い生き物は、自らが食べられないことこそが、生きることなのだという。食べることよりも、食べられないためを第一に進化してきたものも多い。卵のときはもちろん、幼虫のときも、成虫となっても、常に捕食さることが、最大の恐怖なのである。

 しかし、人間に生まれたら、捕食される恐怖も、踏みつぶされる恐れもまったく感じない。絶対強者として、他のものの命を食して生きている。もうすでに生きるために食べるのではない。楽しむために食べているのだ。何を、どのように美味しく食べるか。珍しいおいしいものを求めて、飽きることなく奪い続ける。他の生き物のために、わが命を差し出すこともなく、ただ楽しみのために食べる。しかも、ご法に会うことがなかったなら、当たり前のことで、何の罪悪観を感じることもないのだ。まるで餓鬼ではないか。

 餓鬼道とは、貪りの世界であり、慳貪や嫉妬の世界だと、『正法念経』には説かれる。単に、欲しい、欲しいと貪るのではない。あり余るほど持っているのに施さず、加えて他人の持っているものをうらやましがり、妬んで、相手を傷つけても奪おと必死になる。それでいて、どれだけ得ても、決して満足(満ち、足りる)するこはなく、常に飢え、苦しみ続ける世界なのだと。

 源信僧都の『往生要集』に、餓鬼道が詳しく説かれている。私達が考えている餓鬼の姿は、ほんの一面である。

 「食法餓鬼」という餓鬼がいる。真っ黒なからだで、険しい山坂を走り回って、法座の場を求めている。しかし、なかなか法座には出会えない。おいおいと泣きながら、やっとの思いで法席にあい、読経や説法を聞いて命を保っているというのだ。法を喰らうのだから、餓鬼の中でもかなり上等の部類だ。がしかし、いくら聞いても聞いても満たされることはなく、今もまた法席を求めて、必死に泣きながら求めている。法を喰らい、取り込むことしか考えていない。決して、自らを差し出すこともなく、自分の欲望のためだけに、今日も法を求めているのである。

 あり余るほどの法徳を頂きながら、常に、もっと「くれ、くれ」と求め続けている私の姿と、どこがどう違うのか。
               

|

« 8月は東京ZOOM法座へ | トップページ | 『御伝鈔』下巻第二段「稲田興法」(1) »

法味・随想」カテゴリの記事