『御伝鈔』下巻第二段~何故、関東なのか?~
一、第一は、法然聖人の教示に従われて、自信教人信のためであったことは明白である。
これは、『御伝鈔』上巻三段との関連もあるが、そこでは、東方の「辺鄙の郡類を化する」ことが、救世観音菩薩(聖徳太子)の夢告されている。それが適ったのも、法然聖人共々に流罪となったおかげで、これも師教のご恩徳であると記される。
二、流罪地の越後は雪深く、一年のう5ケ月近く雪に覆われて活動が制限されている。この点も何かがあったのではないか。
三、お師匠様の法然聖人は、親鸞聖人が赦免されたと時期を同じくして京都に入洛を許されておられる。 年11月ことである。しかしその2ケ月後、そして翌年1月には、ご往生されている。その情報は案外早く届いていたようだ。
四、しかも赦免されたとはいえ、京都やその周辺では、専修念仏の弾圧がまだ続いている。自由な教化活動も制限があったと思われる。
五、いまは、京都に戻る選択はなかったとはいえ、なぜ、関東だっだのか。ひとりでの遊行ならともかく、小さな子供連れとあっては行き当たりばったりの旅は考えずらい。一説では、三善家(恵信尼公の実家)の親類・知己が、常陸周辺に多かったのではないかとせ推論されいる。
六、そして有力な説の一つは、親鸞様と善光寺聖(勧進僧)との関連があったのではないかというものだ。これは、聖人の「安城の御影」(生前の肖像画)が念仏聖の姿だったり、また越後から関東への道程に長野の善光寺を立ち寄っておられる可能性もあり、善光寺讃の作製など、何らかの関連性も指摘されている。
一、や二、との関連だが、次に法然聖人の遺言は有り難い。
親鸞聖人編の『西方指南書』(真筆は国宝)中巻「法然上人没後二箇状事」を、新井俊一先生の訳からみると、
「一、葬家(喪に服す者)と追善の事
自分の所に籠もって念仏を励む意志のある門徒や同朋たちは、私が亡くなった後に、決して一つの所に集まってはなりません。その理由は「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」という箴言(しんげん・戒めの言葉)は真実だからです。十分に言動を慎まなければなりません。(略)願わくば、わが門徒・同朋たちは、それぞれ閃かに自分の住居の草庵に留まって、心から新しく蓮台に生まれることを祈ってください。」と。
この教え通り、京都にはお戻りにならず関東の地を選ばれたのであれば、辺鄙な地の群萌にもの、尊い念仏のみのりを弘通したおかげで、私達も大きな幸せを頂いているのであるから、本当にも勿体ない限りである。南無阿弥陀仏
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