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盆参の京都家庭法座

   M家のお盆法要を兼ねた京都家庭法座。昨年から、ご自宅より会館に会所が移ったこともあって、参詣の方がずいぶんと増えた。

『仏説阿弥陀経』を勤めたあと、法話の前に、DVD『浄土への歩み』を見ていただく。七回忌法要法座の時に上映したのだが、そのときは、機材のトラベルがなにかで、途切れ途切れの再生で、半分くらいしか理解できなかったものだ。

 今日の法話は、そのことを受けて、悟朗先生から伝えられた華光の精神を、もう一度原点に戻り、「後生の一大事」と「自他力廃立」の二つの結び目を確認していく。結び目のないご聴聞は、いくら有り難かろうが、心境が変化しようが、結局、自分に都合よく取り込んで、自己内完結で終わってしまう。そんな心境(=自分)を大事に、守っておられる方も多い。そんな方にとっては嫌なことなのだか、その自分を防衛し、誤魔化していく嫌なところ、弱いところを付いてくるのが、華光の法座だ。それで本能的に恐れ、避ける人もいる。教義や理論で武装したり、体験や念仏で守ろうとする人もいる。しかし、そこを破り、自分の都合ではなくすべて手放させてもらうのかどうかだ。私は、ただものを言えぬ逆謗の死骸となって漂っていくだけなのである。

 そのための場を求めてこの華光会館が創建された。ここは、単なる法悦で満足したり、仲良く過ごすために出来上がったのではない。「究極」の一点を聞く場である。もしそうでなければ、どんなに人が集まろうが、みんなが仲良く過ごそうが、すべて今生事でこんな空しいことはないのだと。「究極」の一言を聞く。これが、先生の最後のご説法であった。

一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはな く候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修 正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。」(『蓮如上人御一代聞書』一二一条)

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