『御伝鈔』稲田興法(3)~追体験~
さて、『御伝鈔』には触れておられないが、『恵信尼消息』などから越後より関東、常陸国稲田までの親鸞聖人の道程と、事跡を追ってみた。聖人が直接は語っておられないが、浄土真宗の上でもたいへん重要なことが含まれている。
改めてその道程であるが、
◎越後(新潟・国府流罪の地)→信濃(長野)善光寺→上野(群馬)佐貫→武蔵(埼玉)→下野(栃木)→常陸(茨城)下妻から稲田
建暦元(1211)年、聖人39歳の赦免後も、しばらく越後国に留まられている。法然聖人亡き京都ではなく関東に赴かれいる理由は、一つ前の文章で触れた。その道程を『恵信尼消息』で辿ってみると、興味深いものがある。建保2(1214)年、42歳にすでに関東に移住されているのだが、まず、流罪地の越後国府から南に向かい信濃国(長野県)へ。善光寺への参詣や善光寺聖との関連が強く推測されている。上野国(群馬県)の佐貫にいたって、ここで飢餓などの悲惨な現実を目の当たりに、三部経読誦の善巧功徳の行を行うもすぐに回心して止められた。それが後の「寛喜の懺悔」につながるのは、『恵信尼消息』に詳しい(これを詳しく読んだ)。そして、利根川を下って、常陸国の下妻(茨城県下妻市小島・小島の草庵)に逗留されている。これも『恵信尼消息』では、
「さて常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、 夢をみて候ひしやうは…」
と示されるが、ここで、法然聖人が大勢至菩薩、親鸞様を観音様と御覧になる恵信尼様の夢告があるが、これもたいへん興味深いエピソードである。。
そしてその後、笠間郡の稲田(茨城県笠間市稲田・筑波山麓)に草庵を結ばれ、この地を拠点におよそ20年に渡る布教活動で、上総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされて浄土真実の念仏が弘まったことが、『消息集』の地名からも分かる。その中心は、常陸国大郡と呼ばれる地域で、まだ未開の地で、浄土教も十分に広まっていない活動であったことが窺える。
また、聖人が起点とされる「稲田の草庵」は、常陸国稲田の領主だった稲田九郎頼重の招きに応じて、この地に草庵を結んだのが始まりで、頼重は、聖人の帰洛後、草庵の跡地に寺を開創。現在の西念寺となったと伝承される。浄土真宗別格本山で稲田御坊とも称されるが、もう一つ大切なことは、ここで『顕浄土真実教行証文類』の草稿が顕されることである。その時をもって浄土真宗の立教開宗(元仁元・1224年)としている。
今回、改めて、聖人の越後流罪後から関東への移住について窺ってみた。越後も、妙高高原も、さらには善光寺や関東のご旧跡は、これまで数回訪れている。さらに、子供のときに、家族で京都から越後、長野から関東、そして箱根や東海経て京都に戻る、父の運転での10泊11日の旅をしたのが甦ってきたが、800年後とはいえ、その地に立った体験をさせてもらっている。
真実を顕かにした結果の越後への流罪、その地での恵信尼様との結婚と子供たちの誕生。そして「非僧非俗」としての「愚禿」の名告り。五年後赦免と、ほぼ同時に届いた、流罪の地での恩師法然聖人のご往生の知らせ。そして、群萌への伝道の決意の末、妻子を伴った「愚禿」としての伝道生活。その地で触れる地を這うような暮らしをする辺鄙な地に生きる人々との出会いがあった。
その後、講座では、前回、積み残した「愚禿」の名告りについて窺ったが、「教信沙弥の定」という常のお言葉に乗っ取って、教信様の伝承を『往生拾因』の現代語訳を読み上げて頂いた。
僣越ながら、聖人の「愚禿」名告りや、関東への歩みを、追体験(といへばおこがましいが)いただいているようで胸が熱くなっのが、不思議だった。この流罪から一連の歩みがなければ、泥凡夫の私が、泥凡夫のままで救われる浄土真宗の教えは、決して私のまで届いて来なかったのである。南無阿弥陀仏
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