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2021年8月の17件の記事

『御伝鈔』稲田興法(3)~追体験~

  さて、『御伝鈔』には触れておられないが、『恵信尼消息』などから越後より関東、常陸国稲田までの親鸞聖人の道程と、事跡を追ってみた。聖人が直接は語っておられないが、浄土真宗の上でもたいへん重要なことが含まれている。

 改めてその道程であるが、
◎越後(新潟・国府流罪の地)→信濃(長野)善光寺→上野(群馬)佐貫→武蔵(埼玉)→下野(栃木)→常陸(茨城)下妻から稲田

 建暦元(1211)年、聖人39歳の赦免後も、しばらく越後国に留まられている。法然聖人亡き京都ではなく関東に赴かれいる理由は、一つ前の文章で触れた。その道程を『恵信尼消息』で辿ってみると、興味深いものがある。建保2(1214)年、42歳にすでに関東に移住されているのだが、まず、流罪地の越後国府から南に向かい信濃国(長野県)へ。善光寺への参詣や善光寺聖との関連が強く推測されている。上野国(群馬県)の佐貫にいたって、ここで飢餓などの悲惨な現実を目の当たりに、三部経読誦の善巧功徳の行を行うもすぐに回心して止められた。それが後の「寛喜の懺悔」につながるのは、『恵信尼消息』に詳しい(これを詳しく読んだ)。そして、利根川を下って、常陸国の下妻(茨城県下妻市小島・小島の草庵)に逗留されている。これも『恵信尼消息』では、

「さて常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、 夢をみて候ひしやうは…」

と示されるが、ここで、法然聖人が大勢至菩薩、親鸞様を観音様と御覧になる恵信尼様の夢告があるが、これもたいへん興味深いエピソードである。。

 そしてその後、笠間郡の稲田(茨城県笠間市稲田・筑波山麓)に草庵を結ばれ、この地を拠点におよそ20年に渡る布教活動で、上総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされて浄土真実の念仏が弘まったことが、『消息集』の地名からも分かる。その中心は、常陸国大郡と呼ばれる地域で、まだ未開の地で、浄土教も十分に広まっていない活動であったことが窺える。

 また、聖人が起点とされる「稲田の草庵」は、常陸国稲田の領主だった稲田九郎頼重の招きに応じて、この地に草庵を結んだのが始まりで、頼重は、聖人の帰洛後、草庵の跡地に寺を開創。現在の西念寺となったと伝承される。浄土真宗別格本山で稲田御坊とも称されるが、もう一つ大切なことは、ここで『顕浄土真実教行証文類』の草稿が顕されることである。その時をもって浄土真宗の立教開宗(元仁元・1224年)としている。

 今回、改めて、聖人の越後流罪後から関東への移住について窺ってみた。越後も、妙高高原も、さらには善光寺や関東のご旧跡は、これまで数回訪れている。さらに、子供のときに、家族で京都から越後、長野から関東、そして箱根や東海経て京都に戻る、父の運転での10泊11日の旅をしたのが甦ってきたが、800年後とはいえ、その地に立った体験をさせてもらっている。

 真実を顕かにした結果の越後への流罪、その地での恵信尼様との結婚と子供たちの誕生。そして「非僧非俗」としての「愚禿」の名告り。五年後赦免と、ほぼ同時に届いた、流罪の地での恩師法然聖人のご往生の知らせ。そして、群萌への伝道の決意の末、妻子を伴った「愚禿」としての伝道生活。その地で触れる地を這うような暮らしをする辺鄙な地に生きる人々との出会いがあった。

 その後、講座では、前回、積み残した「愚禿」の名告りについて窺ったが、「教信沙弥の定」という常のお言葉に乗っ取って、教信様の伝承を『往生拾因』の現代語訳を読み上げて頂いた。

 僣越ながら、聖人の「愚禿」名告りや、関東への歩みを、追体験(といへばおこがましいが)いただいているようで胸が熱くなっのが、不思議だった。この流罪から一連の歩みがなければ、泥凡夫の私が、泥凡夫のままで救われる浄土真宗の教えは、決して私のまで届いて来なかったのである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第二段~何故、関東なのか?~

 一、第一は、法然聖人の教示に従われて、自信教人信のためであったことは明白である。

 これは、『御伝鈔』上巻三段との関連もあるが、そこでは、東方の「辺鄙の郡類を化する」ことが、救世観音菩薩(聖徳太子)の夢告されている。それが適ったのも、法然聖人共々に流罪となったおかげで、これも師教のご恩徳であると記される。

 二、流罪地の越後は雪深く、一年のう5ケ月近く雪に覆われて活動が制限されている。この点も何かがあったのではないか。

 三、お師匠様の法然聖人は、親鸞聖人が赦免されたと時期を同じくして京都に入洛を許されておられる。 年11月ことである。しかしその2ケ月後、そして翌年1月には、ご往生されている。その情報は案外早く届いていたようだ。

 四、しかも赦免されたとはいえ、京都やその周辺では、専修念仏の弾圧がまだ続いている。自由な教化活動も制限があったと思われる。

 五、いまは、京都に戻る選択はなかったとはいえ、なぜ、関東だっだのか。ひとりでの遊行ならともかく、小さな子供連れとあっては行き当たりばったりの旅は考えずらい。一説では、三善家(恵信尼公の実家)の親類・知己が、常陸周辺に多かったのではないかとせ推論されいる。

 六、そして有力な説の一つは、親鸞様と善光寺聖(勧進僧)との関連があったのではないかというものだ。これは、聖人の「安城の御影」(生前の肖像画)が念仏聖の姿だったり、また越後から関東への道程に長野の善光寺を立ち寄っておられる可能性もあり、善光寺讃の作製など、何らかの関連性も指摘されている。

 一、や二、との関連だが、次に法然聖人の遺言は有り難い。

 親鸞聖人編の『西方指南書』(真筆は国宝)中巻「法然上人没後二箇状事」を、新井俊一先生の訳からみると、

「一、葬家(喪に服す者)と追善の事
 自分の所に籠もって念仏を励む意志のある門徒や同朋たちは、私が亡くなった後に、決して一つの所に集まってはなりません。その理由は「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」という箴言(しんげん・戒めの言葉)は真実だからです。十分に言動を慎まなければなりません。(略)願わくば、わが門徒・同朋たちは、それぞれ閃かに自分の住居の草庵に留まって、心から新しく蓮台に生まれることを祈ってください。」と。

 この教え通り、京都にはお戻りにならず関東の地を選ばれたのであれば、辺鄙な地の群萌にもの、尊い念仏のみのりを弘通したおかげで、私達も大きな幸せを頂いているのであるから、本当にも勿体ない限りである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第二段「稲田興法」(1)

  『御伝鈔』下巻第二段は、越後より関東の常陸国稲田に移られて、ご教化される段である。本文は短く大意がそのままであるが、「親鸞聖人は、越後より、関東は常陸国稲田(現在の茨城県笠間市稲田町)に移られる。その粗末な庵で、世俗を離れてひっそりと隠れ住んでおられたが、聖人を慕う貴賤・道俗が押しかけて、ご教化が行われた。まさに、仏法弘通の願いを果たし、また多くの衆生を利益するという宿念(昔からの願い)が達せられた。 親鸞聖人は、「昔(法然門下時代)、六角堂の救世観音から告命された夢と少しも違わない」(上巻第三段)と仰せになった。」
 というのである。

 『御伝鈔』には触れられない部分で、聖人の関東移住の理由などを、奥方の『恵信尼消息』などで補って窺った。覚如上人が26歳で『御伝鈔』を書かれた時には、まだ『恵信尼消息』を御覧になっておられない。

 源頼朝が鎌倉幕府を開いて約30年後。政治の中心が関東へ移りつつあっても、大半は辺鄙な農村地帯で、浄土教もまだまだ未開の地の関東に移住されたのはなぜか。伝絵では、お弟子方との旅の絵であるが、実際は、奥方の恵信尼公や子供たち(当時は三名(四名説もあり)、三番目の子、信蓮房はまだ3歳)と一緒の家族連れでの移住である。しかも平坦な道ではない、山越えき厳しい道を通って、なぜ関東を目指されたのだろうか。ひ残念ながら、ハッキリした証拠はなく、すべて推測でしかないが、次ぎのような諸説が語られている。(つづく)

 

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食法餓鬼

 食法餓鬼

 私が生きるということは「食べる」ことである。それはすべての生き物の第一の優先順位だと思っていた。しかし、力の弱い生き物は、自らが食べられないことこそが、生きることなのだという。食べることよりも、食べられないためを第一に進化してきたものも多い。卵のときはもちろん、幼虫のときも、成虫となっても、常に捕食さることが、最大の恐怖なのである。

 しかし、人間に生まれたら、捕食される恐怖も、踏みつぶされる恐れもまったく感じない。絶対強者として、他のものの命を食して生きている。もうすでに生きるために食べるのではない。楽しむために食べているのだ。何を、どのように美味しく食べるか。珍しいおいしいものを求めて、飽きることなく奪い続ける。他の生き物のために、わが命を差し出すこともなく、ただ楽しみのために食べる。しかも、ご法に会うことがなかったなら、当たり前のことで、何の罪悪観を感じることもないのだ。まるで餓鬼ではないか。

 餓鬼道とは、貪りの世界であり、慳貪や嫉妬の世界だと、『正法念経』には説かれる。単に、欲しい、欲しいと貪るのではない。あり余るほど持っているのに施さず、加えて他人の持っているものをうらやましがり、妬んで、相手を傷つけても奪おと必死になる。それでいて、どれだけ得ても、決して満足(満ち、足りる)するこはなく、常に飢え、苦しみ続ける世界なのだと。

 源信僧都の『往生要集』に、餓鬼道が詳しく説かれている。私達が考えている餓鬼の姿は、ほんの一面である。

 「食法餓鬼」という餓鬼がいる。真っ黒なからだで、険しい山坂を走り回って、法座の場を求めている。しかし、なかなか法座には出会えない。おいおいと泣きながら、やっとの思いで法席にあい、読経や説法を聞いて命を保っているというのだ。法を喰らうのだから、餓鬼の中でもかなり上等の部類だ。がしかし、いくら聞いても聞いても満たされることはなく、今もまた法席を求めて、必死に泣きながら求めている。法を喰らい、取り込むことしか考えていない。決して、自らを差し出すこともなく、自分の欲望のためだけに、今日も法を求めているのである。

 あり余るほどの法徳を頂きながら、常に、もっと「くれ、くれ」と求め続けている私の姿と、どこがどう違うのか。
               

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8月は東京ZOOM法座へ

    今年6月に1年6ケ月ぶりに完全リアルの2日間で開催された東京支部法座。しかし、8月はZOOM法座に逆戻りだ。最近の東京圏の感染拡大の現状を考えると、これも致し方はないだろう。

 ZOOM法座でも、法座進行は2日間の完全版で、初日は昼座、夜座の後、夜はZOOM懇親会。2日目は朝座、昼座とあって、合計4座での法話を担当した。ZOOM法座の利点は、ブレイクルームの機能を使った分級座談会で、こちらは6~7名のグループを4つ(そのうち林野会館集合組はリアル)を持った。普段の法座のように突っ込んだ厳しいご示談になった回もあれば、まったく声がでない回もあった。隣人を肌で感じられないリモートの限界もある。懇親会も普段のようにはいかないが、お酒がはいると盛り上がって少し延長となった。

 さて法話は、源信僧都に焦点を当てた。一つは餓鬼道について『往生要集』を、現代語訳で読んだ。詳細な記述に驚かされるが、夜座は、その文章を絵にしたスライドを観る。これが初めてではないが、視覚になるとまた違ったリアリテーがある。誰もが、別の世界のことではなく、今、私の姿だと。その後の座談会も、かなり突っ込んだ内容となった。

 朝座は、『往生要集』の中から、人間界の「不浄」の相を現代語訳で読み、「白骨観」のご文を原文でいただいた。それにしても、この不浄の相の描写も、おそろしいほど詳細である。源信僧都は、人間の相を、「不浄・苦・無常」と、とらえておられる。四轉倒のうちの「常・楽・浄」の三つのひっくりかえっていて、それともいうのも、その根底には、「無我」が悟れず、「我」の執着が迷いを生んでいるからである。

 昼座は、同じ源信僧都様だが、親鸞聖人のお正信偈の源信讃をいただいた。真宗的になって、皆さん馴染みがあるかと思ったら、自分の機の浅ましさからは外れるので、急に難しくなったという声もあった。最後の座談会での質問が面白かったが、ここでは省略する。

 リアルで会えなかったのは残念ではあるが、懇親会もあって、2日間、充実した内容ではなかったか。次回の10月の東京法座はリアルで行いたいものだ。

 

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四十八願を味わう(26)~第47・48願~

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。」
(第四十七願・聞名不退の願)

意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他の国の菩薩たちが、わたしの名(南無阿弥陀仏)を聞いて、ただちに不退転の位、つまり仏となることが決まり、そこから退くことのない地位を得なければ、私(法蔵)は、決して仏にはなりません。」

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。」(第四十八願・得三法忍の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他の国の菩薩たちが、わたしの名(南無阿弥陀仏)を聞いて、第一法忍(音響忍=仏様の説法を聞いて、驚き恐れることなく信じ受け入れること)、第二法忍(柔順忍=素直に真理に随順し、さとること)、第三法忍(無生法忍=真理にかなう形・姿を超えた不生不滅の真実そのものを、ありのままにさとること)を得ることができず、さまざまな仏の法において不退転の位を得なければ、私(法蔵)は、決して仏にはなりません。」

 四十八願の最後の一段(四十願~四十八願)は、広く他の仏国土で自力修行する菩薩方に誓われた願です。
 その最後は、名を聞く一つで不退転の位、つまり仏となることが決定すれば、二度と退くことのない地位に定まるのだと誓われました。それを具体的に示すと、第一、第二、第三法忍を得ることだと言われます。すなわち、第一法忍とは音響忍(おんこうにん)で、仏様の説法を聞く、その音を聞き響きを味わい、恐れることなく信じ受け入れて、真に理解すること(解)。次の第二法忍とは柔順忍(にゅうじゅんにん)で、その理解した真実に素直に随順し(行)、さとること。第三法忍は無生法忍(むしょうぼうにん)で、真理にかなう形相を超えた不生不滅の真実そのものを、ありのままにさとる(証)ことです。 聞名ひとつで、この三忍に得、不退転の位に定まるのです。
 こうしてすべての他の仏国で自力修行中の菩薩方に対しても、「広大なご利益があるぞ。どうか、わが名(南無阿弥陀仏)を聞いておくれ」と願われて、四十八願が結ばれました。南無阿弥陀仏

 ある寺院の寺報に「四十八願」の解説をたのまれて8年がたった。年3度、1願ずつではなくて、2~3願まとまることもあったが、それでも8年が経過したのである。それも、今号で終了。終わるとなると名残り惜しいものだ。ありがとうございました。
 

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日本映画『太陽の子』

 8月15日(日)終戦記念日。映画『太陽の子』を観る。

 この映画は、昨年(2020年)8月15日に、NHKで放映された『太陽の子』を映画用に再編集されたものだ。視点を代えた編集なので、昨年7月に自死された三浦春馬も出演。戦地で深く傷つき、入水自死未遂する役で登場する。

  第二次世界大戦中、京都帝国大学で行われてた原子爆弾開発計画の史実をベースにしている。主演は、新型爆弾の研究員、「実験バカ」役を柳楽優弥。最近では、映画『HOKUSAI』で若き日の葛飾北斎を熱演していた。その弟が戦地に赴任後、一時帰国してた三浦春馬と、きょうだいのような幼なじみで、微妙な三角関係となる有村架純の3名の、戦時下における青春グラフティーであり、研究者としてアメリカに負けるか、また戦争勝利のための使命感に燃える一方で、科学者として大量殺人兵器の開発に関わらざるおえない葛藤、さらに狂気の一面が描かれている。

 戦時下、日本でも原爆開発は、陸軍主導と海軍主導の2つの研究があった。海軍は京都帝国大学の荒勝教授を中心にウラン使用の研究がされている。映画でも、京都帝国大学も、荒勝教授も、実名で登場し國村隼が演じている。重要な会議では湯川秀樹博士も参加しているが、映画にはない。 ウラン鉱石を濃縮して原爆の材料となるウラン235の抽出するために遠心分離機を用いる方法は、理論レベルではともかく、肝心の遠心分離器すら完成に至らず、原料のウランの入手さえも困難で、十分な資材も電気さえもままならず、国運をかけた一大プロジェクとしては、あまりにもお粗末だ。
 すでにアメリカでは核実験に成功していた。そして、ついに8月6日に広島に、プルトニウムを生産したウラン型の原爆が投下され、壊滅的な被害を受ける。9日には、長崎にもプルトニウム型が投下される。京都帝大のチームは数日内に広島入りして、調査にあたる。そして、第3の標的は、京都だというの噂が流れる中で、科学者として冷徹な行動をとる。原爆の実態を観察したいと比叡山へと登っていくのであった。

 TV版よりよかったけれど、もう少し科学洒者としての葛藤や苦悩が深堀りされると、もっと深みがでたように思えた。

 

 

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お盆参り最終日

   今日も、早朝から土砂降り。車での移動とはいえ、法衣での移動は不自由だ。
 午前中は宇治方面を回る。濡れる覚悟はしていたが、宇治にはいると止み間もあって助かった。

 1年に1度だけお会いする人達と共に勤行し、短い法話をして、近況をお尋ねしたり、雑談をする。
 今年は、同人宅で初盆があったので法要形式で勤め、『阿弥陀経』おこころをご法話。

 午後からは、会館でのお参りが2軒。コロナの関連で広い会館に集ってこられた。お子さん方は、何十年も前に子供大会に参加されて、「地獄」の掛け軸に、「今年は、どんなスライドがあるのか怖かった」と。奥様は、ぼくがだんだん父に似てきていると言われる。ぼく自身は、まったく思っていないのだが、この位の距離の方からの方が、よく見えるのかもしれない。母子共に仏縁があったのだが、いまのところ、これ以上のご縁は結べていない。

 続いて、ZOOM配信でお盆参り。昨年に続いて、2回目。感染拡大を心配されて、東京からの帰省を自粛された。あわせるために、ゆっくりと大きな声で勤行するが、なんとなくズレていくので、難しい。ただ法話は対面よりも、突っ込んで話せた。質問が出たり、後から感想も頂いた。以前の勤務の関係もあって、浄土真宗の教えに関心を寄せてくださり、華光のHPもご覧くださっている。次は、実際に法座に足を運んで頂きいが、もう一息というところである。

 今年は、集中してお盆参りはこれで終わった。でももう一仕事あって、来週末の東京支部のZOOMの会議。関東での感染の急拡大で、ZOOM法座に切り換えることになったが、どんな形式で行うのがいいのか。ZOOM法座では、法話の形式や座談会も持ち方の違いうので、よりよい法座にするめに打ち合わせを重ねている。今年の6月は、1年半ぶりのリアル東京法座だったが、残念ながら逆戻り。今回は無理はできなかった。

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お盆参り初日

 盛り上がった東京オリンピックも終わり、お盆に入ったら、新型コロナ感染の急拡大と梅雨末期のような大雨が続いている。コロナの拡大は、予想されていたが収束のメドがたたないことが悩ましい。そしてこの長雨。この時期に、こんな大雨・長雨は記憶にない。ただ、連日の猛暑日で、38度を超える日もあった猛暑は、一息ついた。からだは楽だが、西日本豪雨のような災害にならないか心配だ。

 今年のお盆は、先週の京都家庭法座を別に、2日間だけの短期集中型だ。

 鴨川を遡って鞍馬街道を北に、市原へ。年に一度、京都市内を北上する。有り難いことに、山沿いの道なのに、小雨になった。

 お子さんも含めて、家族でお参りくださる。大きな声で、称名念仏、そして勤行される。法話は、『阿弥陀経』に沿って、舎利弗尊者と『阿弥陀経』について。今回のお盆は、だいだいこのテーマでとおした。一旦、帰宅し、午後は、ご近所のお参りで、出たり入ったり。同人宅では、餓鬼、中でも食法餓鬼の味わいを聞いてもらった。

 

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中国映画『少年の君』

  ピュアな恋愛青春映画でありながら、中国社会問題を鮮烈に描写する『少年の君』

  これはほんとうによかった。

 主演女優の周冬雨(チョウ・ドンユイ)が、素朴な高校生にしか見えない! 前作(3年前)には子供を育ていたというのに…。

 学業は優秀だが、母子家庭の経済状態は悲惨で犯罪ギリギリな仕事を行う母と、いじめで自死した同級生をかばったことから、次ぎのいじめの対象として陰湿ないじめ(犯罪)を受ける女子高校生と、天涯孤独なチンピラが反発しながらも魅せられ、孤独な魂を抱えた同士深い絆で結ばれていく。そして、大きな事件ま巻き込まれるが、自らを犠牲してまでも相手を救おうとする。しかし、事実を追求しようとする若い刑事。彼は、彼女が起こした事実を誤魔化さず引き受け、裁きを受けることが真の救いだと信じている。
 もう還暦間際のぼくの中にも、こんなピュアな純愛映画にジーンとくる気持ちがまだあることに驚いた。少し離れて座っていた中年女性が、声を出して泣かれたのにも驚いたけど。

 あわせて、熾烈な受験競争や壮絶ないじめ、そして貧富の格差によって切り捨てられる人々など、現代の中国社会の問題点も浮き彫りにする社会ドラマでもある。日本でも大学受験の厳しさや学歴格差が問題になっているが、中国や韓国の比ではない。中国や朝鮮半島の王朝では、古来(隋の時代、つまり聖徳太子の時代)より20世紀初頭まで続くのが、「科挙」という官吏登用試験がある。もう一つが「宦官」という賎しい身分ものは、自ら去勢して権力に近づく制度があった。なぜか、先進国の中国を真似た日本なのに、この制度は導入されていない。中華では、異民族王朝でも引き継がれ、近代化によってやっと廃止されるが、受験戦争の激しさ、学閥のさは、現在も中国や韓国つづいているのも、科挙の影響だとぼくは考えている。法律は代わっても、人々の精神のにまで影響するの簡単ではない。
 
 とてもいい映画だったので、関連上映されていた同じ監督、主演女優の『ソウルメイト』~七月と安生~ も観た。こちらは、女友達の青春グラフィテー。タイトルどおり、女性同士のソウル(魂)レベルでの絆。同性同士、男女間の違いはあってても、両作品には地続きのテーマがしっかりしているのが、見どころだ。

 

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誰も聞いていない

 2グループに分かれての信仰座談会。
 司会者から指名を受けた方が、「今日の話は娘にぜひ聞かせたかった」との発言される。

 恩師の法話のネタではないが、
 「ぼくは、あなたにお話したのですよ」の典型である。

 座談の中でも、今生と後生を分別で区別し、これは今生事だという都合のよい解釈が気になった。「これが暗い心、これが黒い心」と、都合よく分けることが、迷いの正体だ。仏様を自分の都合よく利用する心こそが恐ろしい。どんなに真剣に聞いたふりをしても、主人の心は布団をかぶって高いびきなのだ。

 お盆参りのお礼のメールが届く。ご法話が有り難かった。一緒におられて小学生の息子さんはキョトンと聞いていたので、このようにかみ砕いて話し、子供に有り難い法話でしたとの御礼。

 ぼくは子供さんのことは目に入っていなかったのに。 

 見事に、誰も自分のこととしては聞けない。

 

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盆参の京都家庭法座

   M家のお盆法要を兼ねた京都家庭法座。昨年から、ご自宅より会館に会所が移ったこともあって、参詣の方がずいぶんと増えた。

『仏説阿弥陀経』を勤めたあと、法話の前に、DVD『浄土への歩み』を見ていただく。七回忌法要法座の時に上映したのだが、そのときは、機材のトラベルがなにかで、途切れ途切れの再生で、半分くらいしか理解できなかったものだ。

 今日の法話は、そのことを受けて、悟朗先生から伝えられた華光の精神を、もう一度原点に戻り、「後生の一大事」と「自他力廃立」の二つの結び目を確認していく。結び目のないご聴聞は、いくら有り難かろうが、心境が変化しようが、結局、自分に都合よく取り込んで、自己内完結で終わってしまう。そんな心境(=自分)を大事に、守っておられる方も多い。そんな方にとっては嫌なことなのだか、その自分を防衛し、誤魔化していく嫌なところ、弱いところを付いてくるのが、華光の法座だ。それで本能的に恐れ、避ける人もいる。教義や理論で武装したり、体験や念仏で守ろうとする人もいる。しかし、そこを破り、自分の都合ではなくすべて手放させてもらうのかどうかだ。私は、ただものを言えぬ逆謗の死骸となって漂っていくだけなのである。

 そのための場を求めてこの華光会館が創建された。ここは、単なる法悦で満足したり、仲良く過ごすために出来上がったのではない。「究極」の一点を聞く場である。もしそうでなければ、どんなに人が集まろうが、みんなが仲良く過ごそうが、すべて今生事でこんな空しいことはないのだと。「究極」の一言を聞く。これが、先生の最後のご説法であった。

一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはな く候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修 正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。」(『蓮如上人御一代聞書』一二一条)

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一対一

 今年にはいって、月に1~2度のペースで、法座とは別に、一対一で向き合って触れ合う機会が増えている。内容は、ご示談だったり、相談やカウンセリングだったりするのだか、じっくり話を聞かせていただけるので、ぼくにとっても有り難い機会である。どうしても、法座の座談会の中では時間の制約もあるし、大勢の中では収まらない話題もあるのは当然だ。

 コロナの影響で、華光会館の行事では懇親会もずっと中止にしている。気さくに声をかけたり、気になった人に触れ合うという意味で懇親会の役割は大きい。少し話を聞いてもらいたいとか、質問や心境について尋ねてと思っている人も多いのかもしれない。

 ぼくも、話しの内容を通して、その方を聞かせていただくことに焦点をあてて臨ませてもらっている。そのために聞き方も試行錯誤し、工夫しなから進めているのである。

 今日、相談にお出でなった方は、前日に、予定が決まった、予想もしなかった方だった。内容も、ある支部で起こった7~8年前の出来事での心境が中心。ある意味で驚きでもあり、同時に、よくぞお話くださったなーと思った。やっと言葉にして伝えるられるまでに、それだけの年数が必要だったけ重い内容でもあった。これをきっかけに、新たな歩みが始まるのことを願っている。

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調律

 今年も、ピアノの調律に来館くださる。

 3階の研修室にあるピアノは、この日高の同人が寄贈くださったものだ。ピアノ調律師もされていて、年に1度、調律のためだけに来館くださるのである。ありがとうございます。
 
 ごあいさつ時に、調律の様子も見せていただき、いろいろとお話も窺ったの。ピアノ構造など、まったく知らないことなので、興味深く聞かせていただいた。

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 皆さんの目にとまることはないところでも、華光会館は回られているのである。

 

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七回忌法要のご法話

  父の七回忌法供養法要を勤める。平日の昼間にも関わらず、同人の方も多数お参りくだった。2016年8月7日に、九十歳を一期として往生の素懐をとげた。それから6年が経過し、お参りの中には、父とのご縁がまったくなかった方も増えてきている。

 お正信偈のあと、ご法話をいただく。だいだい以下のようにお聞かせていただいた。

 日本では、戦前まで長らく「家」制度が続いてきた。戸主-父親、そして長男に引き継がれ、家産を増えし、そのために家業を継ぐ。その中心は、常に成人男性であって、女、子供は付属品のような立場であった。個人とうより、あくまでも「家」の宗教としての「浄土真宗が守られたきたといえる。

 それが第二次世界大戦で、男性、家長中心の「家」制度は否定された。が、法律が代わっても、長らく人間に身にしみついたものは、簡単に変わることはなかった。いまでもその残滓で、女性の地位は低く、男性中心の社会であることに違いない。しかし、徐々にはであっても変化はしてきて、特に都市部では「家」制度は崩壊している。それは、これまでの社会の仕組みが変わるだけでなく、家族や社会の歴史もまた忘れられていくことでもる。個人が立つといえば聞こえがいいが、実際は、孤立化したり、ひとりで生きて行けるという錯覚を生み出す。社会が複雑になればなるほど、多く人達に支えられているという部分が見えづらくなる。また自意識過剰というのか、私の思いが一番大切、それだけで完結していけるという錯覚に陥っていく。
 また歴史的なつながりがなくなると、今しか考えない、現世中心主義となる。
 そんな中で、浄土真宗の布教も変し、「いのち教」だったり「きづな教」だったり、「こころ教」だったり「おかげ教」だったりして、葬儀の法話は、「また会える教」に成り下がって、小手先だけの教えに留まっている。

 しかし、「仏教は無我にて候」なので、けっして、私の思いが一番大切で完結するのではない。浄土真宗では、「自力を捨てよ」と言われるのである。
 また、『重誓偈』に「我建超世願」とあるが、阿弥陀様の願いは「超世」であって、それは世を超えるとものであり、また人間の常識を超える願いでもある。現世の、その時、その時ではなくて、三世を貫く真実であり、そこを「後生の一大事」と打ち出さしていくのが、浄土真宗である。

 後生の一大事と、自力他力の廃立、それが平生の時、信の一念で決まるのである。増井先生は、その一点をブレルことなく、厳しくお取り次ぎくださった。その増井先生も、最後はすべてが剥がされていかれた。称えていたお念仏までも、結局は剥がされていくのである。

 「念々称名常懺悔」という善導様のお言葉がある。常に懺悔せよというのではなく、念々の称名念仏こそが、常に懺悔なのであるということだ。これが、今年六月に亡くなった母が親からの遺言としての常の言葉であった。

    

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ここが難しい

 「こころの勉強」がテーマ。

 学校にはいろいろな勉強がある。
 
 幼児から、小学生、中学生、高校生、大学生と参加者がいたので、それぞれがどんな勉強をしているのか尋ねる。成長に合せて、段階的に課題を習得して、次ぎの課題に取り組んでいくことがよく分かる。

 もちろん勉強にもいろいろな種類がある。知識を得るだけではなく、理解や思考して、考え方を身につけたり、技術を得たりする。スボーツでもそうだ。同じ競技でも、速さ(スピード)を求められるものもあれば、長く(持久力)が必要なものもある。強さが大切だったり、正確さや集中力が一番なものもある。体力、技術、メンタル(精神面)と、一外にいえるものではない。

 それでも、大きく分けると、 

 頭の勉強は、賢くなるためにするものだ。
 体の勉強は、強くなるためにする。
 芸術関係なら、うまくなるためにするのだろう。

 ということになる。では、こころの勉強とは何か。その目的は何か、そしてその手段や方法は? 何を、どう勉強すればいいのだろうか。
 
 一般的に、こころの勉強とは、心をきれいにすること。正しく、立派に人になることを目指しているのだ。

 そうだとしても、それをどう評価し、実践するのか。頭の善し悪しや理解の有無は、テストや受験で評価できる。運動は、数字で進歩を現わせる。芸術の評価は難しくても、上手とか下手の評価が数字で出される。しかし、「こころの勉強」を評価はできない。一昔前なら、善行(親孝行とか、社会に貢献した)が表彰されたものだが、行いとして外に表れたものであって、ほんとうのこころではない。「こころがきれいな人だ」はどこまでも主観であり、こころをきれいにする方法もないではないか。

 それでも「こころの勉強」と言葉にすると、なんとなく分かった気にはなる。でも実際は何も分かっていないのだ。

 しかもだ。浄土真宗での「こころの勉強」とは、「こころきれいにする」ことでも、「いい人間になる」ことでもない。それでも、多く人が、ご聴聞とは、至らない自分を知らされて、少しはましな人間になることを目的にしてはいないか。もしくは知らないことを教えて頂き、少しでも正しい教えを身につけることが大切だと思ってはいないか。

 でもそれはまったく浄土真宗の聴聞ではなく、役立つどころか、聴聞の妨げになるのだから、まったく恐ろしい話だ。

 もし浄土真宗にこころの勉強があるならば、愚かな自分、至らない自分、恥ずかしい自分を、仏様の鏡の前にたち、ありのままに教えていただくことだけである。そして、賢くなるのでも、立派になるのでも、きれいになるのでもない。ただひたすらにほんとうの自分=仏様の目に写った私を聞かせてもらうだけなのである。

 なんという常識を超えた教えだろう。

 ここまでくると。突然、話が飛躍したと感じる。私たちの常識を超えた教えだからだ。むしろ、「自分を知らされ、少しでも努力し頑張って、よりよき人になりましょう」といわれるほうが、ずっとわかりやすいのに、そうはいかないのが真宗の難しさ、厳しさがある。

 要、ほんとうのことをほんとうと聞かせてもらうことだ。「アホ」を「アホ」と聞く、「悪人」を「悪人」と聞く、「地獄行き」を「地獄行き」と聞く。ただそれだけだ。

 でもね、そこが難しい。「あほ」に「あほか!」と指摘すると、へそを曲げ、抗議されるのがおちだ。みんな本当に聞いていない。南無阿弥陀仏 

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半日子供大会

  8月、夏の仏の子供大会の季節がやってきた。
  しかし、昨年に続いて今年も新型コロナで中止さぜるおえない。春(1泊2日)と合せると4回連続での中止は残念だが、いまは致し方がない。
 
 少しでも雰囲気を味わってもらういたい。朝から夕方までの半日の仏の子供大会を開くことになった。まあ、子供大会というより、拡大の日曜礼拝というのが正確ではあるが、、。

 

 先生方も子供大会出身の女子大生が3名。準備や打ち合わせからよく頑張ってくれた。コロナの中でも子供たちも、幼児から、小学生、中学生に高校生、初めての方、遠方からの参加と、多彩だった。大人も保護者に、同人の方とお参りも多くて賑やかだった。

 それにしても半日だけとは勿体なかった。準備も時間をかけたが、あまりにも時間が少なすぎた。

 勤行・法話のあとは、20分ほどの分級座談会。すぐにランチで外に出て、もどると昼の法話。その後はゲーム大会。その後は、子供たちは創作活動、大人は2グループでの分級座談会。大人もゲーム大会で大いに盛り上がった。この 大人のゲーム参加は、ある意味よかった。いつも見えないその人の素顔が垣間見れる時があったからだ。ただ、慌ただしい外食にゲーム大会も盛り上がりすぎて、その後の分級座談会の時には力が尽き、雑談のまま、散漫に終わってしまったことは、残念だった。

 消化不良のまま、あっという間に、今年の夏の行事は終わった。

 

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