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『御伝鈔』下巻 第一段「師資遷謫」

 下巻の第一段「師資遷謫」と、」後に段名がつけられる。
この「師資遷謫」(ししせんちゃく)とは、「師資」は師匠と弟子(親鸞様)のことで、師匠の法然聖人と、弟子の親鸞聖人のこである。「遷」は「左遷」と熟語されるように、「追いやる」「遠方に追放すること」だ。「謫」は呉音「ちゃく」と読み、「責める」こと。「謫居」と熟語すると「罪によって流され、そこにいること」である。師匠法然聖人と共に弟子親鸞聖人、師弟共に流罪に処されたという意味で、つまりは、承元の法難の顛末、専修「念仏停止」のことである。。

 それを次ぎの三段(覚如上人の文と『化身土巻』の引用部分を分けなら、小さく五段となる)に分けて頂いた。

一、「浄土宗興行 ~ あだをむすぶ」
 法難の興り、僧俗の昏迷(『化身土巻』の引用)
 
二、「これによりて ~ みなこれを略す」
  法難の顛末((化身土巻』の引用)と、師弟の罪状

三、「皇帝 諱守成 ~ 在国したまひけり」
  流刑赦免と教化の始まり

 その大意は以下のとおりである。
一、浄土宗の興隆による聖道門の衰退は、法然聖人のせいだと、奈良や比叡山の僧侶が憤って、朝廷にその罪を罰するように訴えた(承元の法難)。
 そのことを親鸞聖人は『化身土巻』後条で、「聖道門の教えは廃れ、浄土真宗の教えは悟りを開く道として、今盛んである。ところか、諸寺の僧侶や学者も、正しい教えとよこしまな教えの区別がつかない。それで興福寺の学者が朝廷に訴えて、承元元年に念仏停止が決まる。天皇や臣下も、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心での不実の行いなのだ。

二、それで、法然聖人をはじめ、門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪い、俗名を与えられ、遠く離れた地に流罪に処した。私もその一人だ。だからもはや僧侶でも俗人でもない。そんなわけで、禿の字をもって自らの姓とする。流罪は五年間にも及んだ」と。
 法然聖人は藤井元彦で、土佐国幡多。親鸞聖人は藤井善信で、越後国国府に流罪となる。

三、順徳天皇の時、建暦元年に罪を許された。その時「禿」と名告られたことに、天皇は大変感激された。罪が許されても、教化のためにしばらく越後に留まられた。

 『化身土巻』後序の引用は、第五段「選択付属」に続いて2ケ所目であるが、法然聖人のご往生の様子を除いて、親鸞聖人の事跡の記述がすべて引用されていることになる。その『化身土巻』後序の記述は、法然聖人の遺徳の讃嘆で、流罪の記述は、真実の教えを伝えたものが、不当な無実の罪を背負わされたことへの抗議の意味があるのだ。

 一方、『御伝鈔』は、親鸞聖人の伝記で、聖人を讃仰するためのもので、また親鸞聖人こそが、法然聖人の正統な後継者であることが明示されていくので、同じ文でも、意図か異なってくる。

 それにしても、東国での教化も流罪となったことがきっかけで浄土真実のみのりは、民衆へと大きく広がることになる。もし聖人の流罪がなければ、今日の浄土真宗は存在していなっかただろう。『御伝鈔』では、親鸞様の言葉として、それもすべて法然聖人のご恩徳のおかげであると、上巻第三段「六角夢想」で東国での教化の夢告と共に述べられている。このことは、改めて下巻第二段(次回)に触れることにする。

 また、『御伝鈔』では触れられていない、法難の興り(専修念仏弾圧)の経過と理由として、『七箇条起請文』(七箇条制誡)や貞慶上人の『興福寺奏状』(専修念仏批判)の要旨などから窺った。政治的な面はとにかくも、それだけ法然聖人の専修念仏の教えが、日本の仏教界を変革される革新性をもったものであることは、明白である。詳しくは通信CDをお聞きください。
 
 また時間の都合で、「愚禿の称号と名告り」は、次回8月で触れることにする。

 

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