7月の仏書に親しむ会~如来の三身~
参加者のリクエストで始まった『真宗安心一夕談』。前回、第1章が終わって、第2章に入る予定でいた。
今回は、事務局の問題で、急遽、Zoom配信が取り止めになったが、本文にはいる前から質問が出された。有志が前日に集い、自主学習会を持つほど力を入れておられるのだ。その意気込みのは感服するばかり。予習より、復習が中心に、みんなで話し合ったが分からなかった疑問点を質問されたのである。
その過程で、「そこは分かっています」といわれた如来の三身について、念のためにお答えしてもらった。すると、法身仏が法蔵菩薩、報身仏が阿弥陀如来、応身仏は釈迦如来との返答。「如来」の三身なのだがら、法蔵「菩薩」が出てくる点でおかしいのだが、誰もそのことに疑問がなかったというである。
こうなると、このまま終わるわけにはいかない。本文からは脱線してしまうが、かなり基本的なところからおさえて、如来の三身についてお話をさせてもらった。語句の説明というよりご法話になって、ほぼ時間を終えてしまった。最後の感想では、けっこうポイントを押さえてくださっている方もあったが、三身の話が尊かったと喜んでおられる方もあった。でもそれも当たり前の話で、そのような法話をしたからである。できれば、もう一歩でてほしかった。この会の趣旨は、『仏書に親しむ会』なのであって、一方的な講義や法話を聞いてもらうためのものではない。そんな集いにしたくないのである。自主学習会を持つほど力を入れておられるのはすごいことなので、単に有り難かったとか、尊かったという感想で収めずに、ここをどう聞かれ、どう理解されたのかに目を向けてもらいたい。別に、知的な理解を尋ねているのではないが、せっかく伊藤先生の聖教量にあたっているのに、「有り難い」「尊い」という感情で終わるのでは、意味ない。結局、何が一番伝えたかったことかという読解力と、本質をつかんでもらいたいのだ。もしくはそんな姿勢で臨んでいただくことで、次へとつながりを聞いて頂きたいのだ。もちろん、それにはこの文章を読めるだけの知識も必要だから、その点はなかなか厳しい点もある。しかし、華光同人には、受け身でおわらないで、なお一層の力を付けてもらいたいのである。それにはこのテキストが相応しいかどうかはわからないが、皆さんの同意で始まったのだから、もう少し続けていくことにしよう。
8月は夏休み。次回は9月4日(水)18時50分の予定。今回読めなかった「第十八願」から読みます。
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