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無我について(3)~南無阿弥陀仏は無我そのもの~

 それでは浄土真宗では、無我はどう理解されているのか。

 実は、親鸞聖人はほとんど「無我」という言葉を使われていないが、これが仏法の基本であるこには違いはなく、表現は少なくても、その意味内容には触れておられる。たとえば、『浄土和讃・諸経讃』では、

「無上上は真解脱   真解脱は如来なり
 真解脱にいたりてぞ  無愛・無疑とはあらはるる」

とあって、その「無愛無疑」に、「欲のこころなし、疑ふこころなしとなり」と左訓されている。

 「無上上というのは、究極の悟りであり、これが真の解脱―「まことにさとりを開くなり」―である。真解脱こそが如来さま。如来になりえてこそ、無愛無疑となりうる」である。無我とは真解脱―仏になることであり、つまり仏果を悟らないかぎり、我々は無我にはなれないというである。それどころか、我々はどこまでいっても、大我の真反対の「我痴」であり、「我見」であり、「我慢」であり、「我愛」そのものであり、迷いそのものである。その輪廻を繰り返す迷いの連鎖を、天親菩薩は「業風薪火のたとえ」で痛ましくお示しくださってる。

 結局は、この私は仏法でいうところの無我なることはできない。ところが、絶対に助かることのない、自分の力では仏になれないものに対して、自らが無我になりきってくださったのが南無阿弥陀仏様である。南無阿弥陀仏こそが無我そのものなのである。その南無阿弥陀仏に出会わない限り、絶対に私は救われることはない。そしてその南無阿弥陀仏に出会うとは、単なる自我というレベルではなく、自力執心の心こそが捨て果てせさられる、まさに無我としてまるまる帰入させれる世界が、真宗の核心なのである。南無阿弥陀仏

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