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壮年の集い~無我について(1)

 「壮年の集い」か開催される。コロナのための定員を設けたか、定員一杯の参加がある。

 初日は「無我について」のご法話をする。法話集『後生の一大事』を新版にするときに、増補版として「無我について」を加えることにした。そのときに、つくったメモをもとにご法話した。詳しくは、法話集『後生の一大事』をご熟読ください。

 あわせて、華光誌の「聖教のこころ」で、

「総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。」(一六〇条)

という蓮如上人御一代記聞書をいただいたからだ。他にも、蓮如上人は、

「仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし。これ聖人(親鸞)の御罰(ごばつ)なりと、御詞(おんことば)候ふ。他力の御すすめにて候ふ。ゆめゆめわれといふことはあるまじく候ふ。無我といふこと、前住上人(実如)もたびたび仰せられ候ふ。」(八十条)

と仰る。仏法は無我が基本中の基本なのである。仏教の旗印である「三法印・四法印」は、
 「諸行無常 諸法無我
  一切皆苦 涅槃寂静」
 「すべてのものは無常であり、無我なのだが、われわれはすべては常住と思い込み、我に執着するから、一切は苦とならざるおえない。だからこの無常、無我、苦を正見して、迷いを転じて、涅槃を悟るならば、そこに寂静の境地が開ける」
というものである。

 また馴染みのあるところでは、龍樹菩薩は『十二礼』で「諸有無常無我等」と、うたっておられる。

 だた、無我ほど一般に誤解されているものもない。しばしば馴染みの仏教用語では興ることではある。それで、仏教における無我を次ぎの三点で説明する。

 第一、世間で使われる無我と、仏教で言われる無我とは、まったくケタ違いの内容であること。
 世間での、無我の境地とは、自分を折って、欲や怒りを我慢する程度の理解であったり、無我夢中のように、我を忘れて必死になって行う程度の理解である。しかし、それはまったく仏教の無我とは異なるものなのである。

 では、第二に仏教でいう無我とは、そもそもどういうことなのか。それを(1)実我、(2)仮我、(3)真我の3つで窺う。
(1)実我
 私が固執している「自分」という誤った考えが実我。この「実我は存在しない」
 仏教の無我説の対象となるこの実我は、凡夫が執着している「おれが」という自我。
「自分の心身を常(じょう)・一(いつ)・主宰(しゅさい)しようとする主体」
「常」=自分は死なぬものと思っている。つまり無常を否定していく。
「一」=自分はかけがえのないものと思いこんでいる。たった一つという執着。
「主宰」=宰相とか国王のように、どんなことも自由自在になるということ。
 永久・不変・自在の三つの根強い作用をもったものが、「我」
 「人執」と「法執」の形をとって表われる。

 

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