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壮年の集い~無我について(2)

(2)仮我
 以上の実我を否定する考え方で、無我へ導きいれるための仮の説明 心身が仮に和合して、因縁によって出来たものだ。自他を区別する便宜上、我と仮(かり)に名ずけたにすぎない。「如是我聞」の我。

 五蘊(ごうん)仮和合
※五蘊(物・心)が仮に和合-因縁によってできることをいう。我とは因縁生。
 五蘊=色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊
  蘊(うん)とは、集まり。すべての存在を物質と精神に五分類。

 色蘊=物質または肉体。あとの四つは精神作用。
 受蘊=感受作用。外からの感触を受けいれる感覚、単純な感情。  
想蘊=表象作用、受から進んで、それを心に思い浮かべてくる。 
行蘊=潜在的なもので、意志的な形成力。衝動的な欲求といった心の働き。
識蘊=認識作用で、意識そのもの。前の三つの心の動きをとりまとめる。

(1)物質・(2)感覚・(3)表象・(4)意志的形成力・(5)認識作用・物質と精神の集まりで、すべて生減変化するものの。五つが調和している時と、調和が崩れた時がある。この仮我をよく顕すのが、次ぎの有名な歌であり、これにすべてがこめられる。

 「引き寄せて 結べば柴の庵にて 解ればもとの 野原なりけり」

(3)真我。大我ともいう。本当の我。
 では、仏教でいう真の我とはなにか。
「涅槃寂静」の涅槃には、「常・楽・我・浄」の四つの徳。
「悟りは、永遠の生命そのものだから常、
 それが本当の楽-弥陀の浄土を極楽とか安楽-。
  我というのは、迷いの我が否定しつくされて無我となるとき、真の依り所となるべき自が完成するのが、我。
 そしてその悟りこそが、浄なのだ」
 仏教でいう無我とは、この真我に導き入れようとして説かれたものであって、世間一般の「我を忘れる」程度の無我とは大違いなのである。

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