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凡夫丸出しの姿

 法話や信仰座談会の法座も大切だが、休み時間のやりとり、懇親会での防衛が外れた姿などを通して知らない一面がかいま見れると、「なるほど」と、相手への理解が進むことも多いのだ。

 その意味でも、今回の家庭法座はことのほか、尊かった。
 
 休憩時間の支部長とAさんとの司会依頼をめぐってのやりとりでは、座談会に臨むAさんの姿勢、態度がよく分かった。司会役は自分を殺して相手に会わせることでも、我慢して話を聞くことでもなく、キャパ以上にそれを受け入れることもいらない。しかし、自由な態度で座談に臨み、たとえ失礼な発言になろうとも、自分を偽らずにいたいというAさんがおられるのだということが、よく分かった。そして、そこにAさんの居場所の一端があると感じておられる節もあった。なるほどね。そのやりとりを聞いているが、ダイナミックでよかったです。でも、せっかく華光の集いにご縁ができたのに、もう一歩のところは勿体ないですがね。

 そりより何よりも、福岡の家庭法座の目玉は、施主様が、率先して凡夫の姿を体現し、「これこそが阿弥陀様のお目当て。阿弥陀様に願われている凡夫の姿だぞ」と、身を挺してお示しくだところにある。しかもそれは、ぼくしか拝ませていただけないのであるから、なおさら有り難い。

 コロナ禍もお構いなし。懇親会を終えて、ご家族との二次会。戻ってきたのは、また21時過ぎで、普段なら夜座がまだ続いている時間で、すでにお互いが出来上がっていた。しかし、ここから三次会が始まり、本領を発揮されていくのだ。そこで尊く思うことが二つある。
 
 酔っぱらい愚痴を吐き出す、凡夫の姿のところまで、ぼくをお招きくださることが、安心して、信頼してくだる証であるということ。

 それでも、深い時間になって延々続く愚痴(たとえほんとうのとこあっても)に付き合ううちに、どんどんこちらの気分は滅入っくる。が、そのときに思った。真っ黒で、真っ暗闇の私の中に飛び込んでくださった阿弥陀様は、けっしてそんな煩悩に犯されることも、影響もうけることもなく、光輝やき続けておられるというのである。しかも、目の前で酔っぱらい、嫌になるのほどの愚痴一杯の姿こそが、そのまま救うぞとのお目当ての姿そのものなのだ。結局、どんなに飾り隠そうとも、一皮むけば、同じ姿なのである。隠しとおせると自惚れているのは自分だけで、すべてがお見通し。ケツの穴どころか、その中身まで知り尽くし、そこに飛び込んでくださっている。それでいて、その闇にの闇に染まることなく、清浄のままで呼び続けてくださるのだ。

 「わからん~」と嘆くあなた。きれいごとや安物のプライドはかなぐり捨てて、この身、このままで聞いてください!

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