華光輪読法座~「人に負けて信をとるべし」
前回読みのこした80-2号の誌上法話を読み切った。 続けて、80-3号の聖教のこころ「負けてたまるか!」を読む。
『蓮如上人御一代聞書』160条の一文を味わう文章だ。
「総体、人にはおとるまじきと思ふ心あり。この心にて世間には物をしならふなり。仏法には無我にて候ふうへは、人にまけて信をとるべきなり。理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。」
だいたい私は、すべてのことで他人には劣るまいという負けん気を出す。そのおかげて、世間事、生活においては、一生懸命に習い励み、向上してきたのである。ところが、聴聞ではそれが通用しない。なぜか。「仏法は無我にて候」、「オレが、オレが」の頑張りこそが、聞法の上では障りになるというのである。そして、蓮如上人いわれた。「人にまけて信をとるべき」なのだと。
この「負けて信を取る」という一言が有り難い。注意していただきたいのは、「仏に負けて」ではなく「人に負けて」というところである。仏となると、抽象的で、簡単に「負けました」と口に出せるのだが、今、目の前の人となったらどうか。これが一番難しいのではないか。「私は正しい、負けてたまるか」の塊が、私だからだ。信仰座談会での指摘でもそうだ。たとえ正しい道理だと分かったとしても、相手の立場、その時の話し方や言葉遣いひとつで、気持ちは収まらず、素直には聞けないのではないか。ときには、言い訳したり、自分の考えに固執したり、それも「これが正直な思いで、それを歪めるのは間違っている」とまで、自分の考えを絶対視している。そうでなければ、もその場では「面従後言」-自らを謙り殊勝げに振るまい従うが、裏では反対のことを言いふらす-という人もいるのだから、どこまでも質が悪い。結局は、私は無我にもなれず、頑な心を折って頭を下げるのが一番嫌いでは、仏法が聞ける道理がない。
ところが、「理をみて情を折るこそ、仏の御慈悲よと仰せられ候ふ。」と仰っている。道理を聞いて、感情をおるのは、仏様のお慈悲あればこそだというのである。そんな自分が一番可愛い、自分中心の私にむけて、まず己を捨てて無我となりきってくださり、頭を下げてくださったるのが南無阿弥陀仏様なのだ。
仏法が聞ける道理がない私に、阿弥陀様のお慈悲がかかっているのである。
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