南無阿弥陀仏に身投げせよ!
2日目の信仰座談会が始まった。だれにうながれるわけでもく、すぐに一人の方が自らを語り始めた。
「華光と出会ってはや数年。でも、今もまったく変わっていない自分がいる。今のままならば、これからも何も変わらず、けっして聞けることはない。」
と告白されると、すくっと立ち上がられて、一歩前に出て来られた。そして床に土下座して、「どうか、お教えください」と、踏み出されたのである。
法話は、「修行者と羅刹」、菩薩時代のお釈迦様の前生である雪山童子が、たった一句の真理の言葉を尋ねるために、仏様とは真反対の姿をした羅刹、つまり鬼に頭を垂れ、命を捨てて教えを請う、それもついかではない「今、越えていく」という法話だったのだ。
ほんとうにそうだ。こちらが尊いのは衣の価値であって、その中身は羅刹なのだから。そして、もし形だけとはいえ、真摯に頭を垂れて道を求める姿は尊い。いくらリモート法座で頑張っても、こんなシーンは生まれてこない。しかしである。頭を下げたからといって、けっして届く仏法ではない。そんな甘いものではないのだ。修行者のように捨てねば、けっして入ってはこない。もちろん、命を捨てろといわれてもこの凡夫の私にはできるものでなはい。第一、こんな有漏の穢身、命を捨てても、なんの値打ちもないのじる。が、しかし、捨てねばならないものがある。一歩踏み出した原動力でもあった「聞こう、分かろう、ハッキリしよう」の心こそが、実は、阿弥陀様のお働きを邪魔している自力疑心の恐ろしい正体なのだからだ。だから、どんなに惜しくても、この自力の心、聞き心は捨てさらねば、けっして他力のお心は満入してはこないのだ。
そう、軸足が私にあり続けるかぎり、いくら真剣に聞こうが、また何十年聞こうが、まったく私は変わらない。私は意味がないと思っているのだが、これまdの聴聞で、その変わらない自分を、聞けない姿を十分に聞かせてもらってきたのある。ならば、邪魔をしてきたそ自力は、は捨てて、翻せられるだけだ。雪山童子が身を投げだしたように、私も南無阿弥陀仏に飛び込んでいくのである。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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