『御伝鈔』(9)第八段「定禅夢想」(1)
聖典講座は、『御伝鈔』の第9回目で、上巻の第八段「入西鑑察」とか「定禅夢想」と名付けれた段である。
正直、段名を聞いても、よく分からない。難しい四文字熟語のようだが、「入西鑑察」の「入西」はお弟子の名で、常々、お弟子の入西房坊が、親鸞聖人のお姿を写したいと願っていことを、親鸞聖人がお察しになり(鑑察)、それを許し、絵師の定禅法橋を指名されたというのである。鑑察とは、鑑は、かんがみる。察は、おもいはかる意味で、他人の胸の中を鏡に写して見るように明らかに知ることである。つまり、入西房の願いを親鸞様が察し、肖像画の許可をされたということである。
ただ本段の意味からすると、「定禅夢想」の方が相応しい。「定禅」も人の名だ。入西房の願いが聞き入れられ、京都七条あたりに住んでいた(朝廷から認めれた正式の)仏絵師がお召しを受けて、すぐにやってきた。定禅法橋が、聖人の尊顔を拝するなり、「昨晩、夢に拝した聖僧のお姿と、少しも違いがありません」と感激で咽びながら、その夢を語られる。
夢では、二人の僧侶がお出でになり、お一人の肖像画の依頼を受けた。あまりに尊いお姿に、「このお方はどなた様ですか」と尋ねると、「善光寺の本願の御房です」と申された。善光寺の阿弥陀如来は「生身の阿弥陀如来」なので、阿弥陀様に出会い、身の毛がよだつほど感激し、「お顔だけを描けばよい」との会話で、夢から覚めた。今、親鸞様のお姿はまったく同じあるので、「お顔だけ描きます」と。
つまり、外部の仏絵師である「定禅」が、不思議な夢告「夢想」を見て、それで親鸞聖人こそは生きた阿弥陀如来さまであること示される段なのである。
それを以下の三段に分科して窺っていいった。
(1)「御弟子入西房 ~ 法橋を召し請す」
入西房が聖人の鑑察に感激する
(2)「定禅左右なく ~ 九月二十日の夜なり」
定禅法橋が夢想を語る
(3)「つらつらこの ~ 仰ぐべし、信ずべし」
覚如上人の讃仰
そして、最後に「まさに親鸞聖人は、阿弥陀如来の化身であり、その教えは弥陀の直説である。五濁悪世の我々凡夫は、その教えを仰ぎ信じるしかない」と、覚如上人は結ばれているのである。
さて、入西鑑察の「入西」とは、親鸞聖人常従の弟子であった入西房のことである。聖人の『御消息』四十三通(808)に「入西御坊のかたへも申したう候へども」(入西房にも手紙を差し上げたいのだが…)と出でくる。また、「親鸞聖人門徒交名牒」にも「二、入西 常陸国住」とある。一説では、沈石寺の開基の「道円」であるとか、またその子息の「唯円」という説もあったが、決まった定説には至っていない。
その入西房が、聖人の「真影」(しんねい)。実物のそのままの姿を写したいと、「日ごろをふるところ」に、つね日ごろをとおして思っていたことを親鸞聖人が、「かんがみて」、鑑みて、察して下さったのだが、そのとき、「左右なく」つまり、左も右も顧みないほど直ちにこれらたのが、「定禅法橋」である。
かれも伝不詳であるが、一説では、「鏡御影」の作者、専阿弥陀仏とも言われていたが、今は否定の声の方が多い。「法橋」とはもともと官僧の僧位であったが、後には広く、仏師や仏絵師にも適用されたもので、朝廷より位階をいただく正式な仏絵師であり、「七条辺に居住」していた。七条辺りは、ここは、平安期の定朝以来、鎌倉期の運慶、湛慶なども住居して「七条仏所」を造り、仏師や仏絵師が集まっていたところである。
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