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6月の高山支部法座

 今年から5月の法座が、6月の梅雨の時に変更になった高山法座。久しぶりの雨の法座となる。今週末で、緊急事態宣言の解除が決まり、新幹線の乗客は(特に帰路)かなり増えていた。まだ夕方5時を過ぎだったところだが、飲食店も込んでいる。高山市は、まん延防止法の対象で、営業時間の制限があって逆に集中するのか。

 法座は高山の方に加えて、岐阜や東京(飛騨が地元)と、翌日は、富山・愛知からの参詣者。以前のような遠隔地からの賑わいはないが、それでもボチボチと解禁になってきている。30代の若い方も数名あるが、高山支部のみだと高齢化が進んで後継者が育っていない。40代、50代の方に、ご縁がないわけではないのに、もう一押しが足りない。何がネックになっているのだろうか。

 初日の夜座は、いろは歌のもとになった「雪山童子と羅刹」を中心に、この文を、源信僧都が、「うかうかと聞くな。頑な犬は、投げられる石に向うが、獅子は、それを投げる人間に向ってくる」というたとえをもとに、火の粉をはらうのではく、命を捨てて聴く、火の元を消す法であることをお伝えした。ただ、座談でも、「いろは歌」に関心が集まり、そこを喜んでおられたのは、まあ予想通り。

 翌朝は、やはり源信僧都の「横川法語」をいだだく。法語なので、繰り返して音読いただき、味わいをいただく。高山の方の大半は、第一段の「まず三悪道を離れて人間に生まれたること、大きなる喜びなり」のところで喜んでおられる方が多かった。本来は、第二段の「本願に遇った喜び」に裏付けられたものであり、その本願に遇うことは、第三段の、私の妄念と、如来の念仏の関係をよくよく心得て聞かせていただくのだが、この辺りは、完全にスルーされていることも気になった。喜べなくても、また分からなくてもいいので、法話の主題にこころをかけて、ひっかかって聞いていただきたい。自分の喜べるところだけで留まっていては、いつまでも法が深まりも広がりもなく、マンネリ化した聞法に終わてしまう。

 昼からは、『御伝鈔』第七段、信心一異の諍論をいただく。これは、次号の華光誌の巻頭言に記載しているが、ポイントは、法然門下380余名の中でも、法然聖人の真意をえたものは、わずか5、6輩であったこと。名号だけでなくて、それを信じる信心までも如来から賜ること。それが、いともやすいようにとられているが、いかにとんでもないことであり、また聞き難いとこであるのか。親鸞様の「往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」のお言葉を頂いた。他力廻向の信とは、「まったくわたしくなし」を、わが身のところに引き寄せて聞いて頂きたかった。

 正直、予想していたが、なかなかここは伝わりづらかった。でもあきらめないで、何度でもご縁を結んでいくしかない。

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