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傾聴ではなく、態度なのだ!

 東京法座の帰路、車中で池見陽先生の講演録を読んでいた。先生とは、2、3度、お会いしたことがあって、「聞」ついてお話したことを印象深く覚えている。

 あるカウンセリング研究会の会報にあった講演会の記録で、その中にあった、ある女子高生との面談事例が出でいる。ロジャーズの中核三条件は「態度」であって、けっして傾聴の具体的な応答の方法や技法ではないことを示す事例である。

 熱い涙が流れてしばらく止まることはなかった。しずかな涙だったが、こんなに泣くのは久しぶりだ。2日間の法座後、法水のおかげで防衛的な心がほぐれていたのだろう。幸いなことに、コロナで新幹線は混雑しておらず、隣席は空いていた。しばらくその余韻を味わいつつ、その感じをからだで確かめていく。フォカーシング的にいうと「ああでもない、こうでもない」と味わっていたが、どこで、なぜ起こっているのかは明確にはなてこなかったが、別にすべてをクリアにする必要もなく、なんとなくその余韻を味わうことにしていた。深い温かいものに触れている感じがしたが、不思議なのは、いま読み返しても、それほど深い感慨がおこるような場所ではない。この文章全体から、追体験するような何かに触れたのだろう。けっしてここに涙したのではないが、核心部分のみ引用する。

 1960年代のロジャーズの自己一致の記述をみると、それは「防衛的な仮面の後ろに隠れているのではなく、体験過程として感じられている気持ちと共にクライエントにあう」となっている。「病院の臨床心理士です」みたいな仮面をかぶっているのではなく、本当の私の体験過程~眠たい、退屈~その気持ちと共にクライエントに会う、それが自己一致、「本物であること」です。

 その人に共感的であり、そして私も自分らしくいる。退屈は退屈だと素直に言い、そして無条件の肯定的なまなざしで見ている。学校へ行かせようと思っていないし、彼女がいきたいなら行ったらいい、といった態度。でもここで注目は、一度も傾聴してない、ということです。結局、このセラビーがクライエント中心だというのはそういう態度によるもの、あるいはそういった人間関係によって人は変わるのであって、傾聴の技法ではない。本当にロジャーズ理論の見本のような事例です。

「クライエント中心療法以降発展し続けるカール・ロジャーズのカウンセリグ」より 
 

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