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2021年6月の18件の記事

傾聴ではなく、態度なのだ!

 東京法座の帰路、車中で池見陽先生の講演録を読んでいた。先生とは、2、3度、お会いしたことがあって、「聞」ついてお話したことを印象深く覚えている。

 あるカウンセリング研究会の会報にあった講演会の記録で、その中にあった、ある女子高生との面談事例が出でいる。ロジャーズの中核三条件は「態度」であって、けっして傾聴の具体的な応答の方法や技法ではないことを示す事例である。

 熱い涙が流れてしばらく止まることはなかった。しずかな涙だったが、こんなに泣くのは久しぶりだ。2日間の法座後、法水のおかげで防衛的な心がほぐれていたのだろう。幸いなことに、コロナで新幹線は混雑しておらず、隣席は空いていた。しばらくその余韻を味わいつつ、その感じをからだで確かめていく。フォカーシング的にいうと「ああでもない、こうでもない」と味わっていたが、どこで、なぜ起こっているのかは明確にはなてこなかったが、別にすべてをクリアにする必要もなく、なんとなくその余韻を味わうことにしていた。深い温かいものに触れている感じがしたが、不思議なのは、いま読み返しても、それほど深い感慨がおこるような場所ではない。この文章全体から、追体験するような何かに触れたのだろう。けっしてここに涙したのではないが、核心部分のみ引用する。

 1960年代のロジャーズの自己一致の記述をみると、それは「防衛的な仮面の後ろに隠れているのではなく、体験過程として感じられている気持ちと共にクライエントにあう」となっている。「病院の臨床心理士です」みたいな仮面をかぶっているのではなく、本当の私の体験過程~眠たい、退屈~その気持ちと共にクライエントに会う、それが自己一致、「本物であること」です。

 その人に共感的であり、そして私も自分らしくいる。退屈は退屈だと素直に言い、そして無条件の肯定的なまなざしで見ている。学校へ行かせようと思っていないし、彼女がいきたいなら行ったらいい、といった態度。でもここで注目は、一度も傾聴してない、ということです。結局、このセラビーがクライエント中心だというのはそういう態度によるもの、あるいはそういった人間関係によって人は変わるのであって、傾聴の技法ではない。本当にロジャーズ理論の見本のような事例です。

「クライエント中心療法以降発展し続けるカール・ロジャーズのカウンセリグ」より 
 

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南無阿弥陀仏に身投げせよ!

  2日目の信仰座談会が始まった。だれにうながれるわけでもく、すぐに一人の方が自らを語り始めた。

 「華光と出会ってはや数年。でも、今もまったく変わっていない自分がいる。今のままならば、これからも何も変わらず、けっして聞けることはない。」

 と告白されると、すくっと立ち上がられて、一歩前に出て来られた。そして床に土下座して、「どうか、お教えください」と、踏み出されたのである。

 法話は、「修行者と羅刹」、菩薩時代のお釈迦様の前生である雪山童子が、たった一句の真理の言葉を尋ねるために、仏様とは真反対の姿をした羅刹、つまり鬼に頭を垂れ、命を捨てて教えを請う、それもついかではない「今、越えていく」という法話だったのだ。

 ほんとうにそうだ。こちらが尊いのは衣の価値であって、その中身は羅刹なのだから。そして、もし形だけとはいえ、真摯に頭を垂れて道を求める姿は尊い。いくらリモート法座で頑張っても、こんなシーンは生まれてこない。しかしである。頭を下げたからといって、けっして届く仏法ではない。そんな甘いものではないのだ。修行者のように捨てねば、けっして入ってはこない。もちろん、命を捨てろといわれてもこの凡夫の私にはできるものでなはい。第一、こんな有漏の穢身、命を捨てても、なんの値打ちもないのじる。が、しかし、捨てねばならないものがある。一歩踏み出した原動力でもあった「聞こう、分かろう、ハッキリしよう」の心こそが、実は、阿弥陀様のお働きを邪魔している自力疑心の恐ろしい正体なのだからだ。だから、どんなに惜しくても、この自力の心、聞き心は捨てさらねば、けっして他力のお心は満入してはこないのだ。

 そう、軸足が私にあり続けるかぎり、いくら真剣に聞こうが、また何十年聞こうが、まったく私は変わらない。私は意味がないと思っているのだが、これまdの聴聞で、その変わらない自分を、聞けない姿を十分に聞かせてもらってきたのある。ならば、邪魔をしてきたそ自力は、は捨てて、翻せられるだけだ。雪山童子が身を投げだしたように、私も南無阿弥陀仏に飛び込んでいくのである。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

 

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久しぶりの東京支部法座

   久しぶりの東京支部法座だ。法座の内容もそうだが、なにより東京法座が開かれ、皆さんにお会いできたことがうれしかった。ZOOM法座の方が、移動も、宿泊もなく、断然楽だ。しかし足を延ばし、身を置かなければ得られないことがあるのだ! 支部長さんを始め、お世話の皆様、ありがとうございました。

 リアルの東京支部法座は、20年1月以来、1年6ケ月ぶり。インド仏跡巡拝の2日前だったが、大昔のような出来事に思える。日常がくずれたからだ。その後の東京の感染状況はご承知のとおりで、Zoon開催が続いていた。6月の開催は早くから決まっていたが、1週間前に緊急事態宣言も(疑惑だが)解除され、最初の週末になった。東京駅の人出の多さに驚いた。同じ緊急事態地域でも、大阪や京都、名古屋とは桁が違う。途中の広い公園も親子連れで賑わっていたし、お昼のそば屋(カレーライスを食べた)でも、昼飲み派も多くいた。東京ドームの近くのホテルもほぼ満室とのことで、人流の観点からは、次ぎの感染拡大は避けられないのは当然だなーと。首都は人口も出入りも、他の地域とは桁違いなのだ。そして、あっちこっちに(といっても、グーンと少ないのだろうが)「東京オリンピック」の垂れ幕やボスターがあった。これは関西ではまったく見かけない代物だ。

 東京支部の方でも、京都にお出でになる方も多いが、リアルで久しぶりにお会いも半数ぐらいはあった。初めての方はいなかったが、それなりに参加者はあった。「コロナになりました」という方もあたが、東京だなと。大阪、兵庫、愛知と、やはり感染拡大の地域の方は、コロナ感染済みというかたにお会いするので、もう驚くこともなくなった。同人に、ZOOM配信もあったが、カメラ、パソコン、プロジェクターと、すべて買い揃えておられたのには驚いた。

 ただ、林野会館に宿泊施設がなくなり、机-イスの会議室になっていた。さらに密接を避けるために距離を取って座ったことで、どうしても座談会の声が遠くなるのは残念だった。もう少し皆さんに近づきたいと思ったが、いまは法座が開けたこと、さらに真摯に求める方がおられたことを喜ばずにおれない。同じ宿に泊まった4名の方とは、ホテルの一室に集って久しぶりのミニ懇親会も持てた。短時間でも、これはこれで楽しかったです。

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『絵はがきの大日本帝国』

 もし、お声をかけていただくことがなかったら、聞かなかっただろう。「絵はがき? なんのこと」としか思えなかった。絵はがきといえば、観光名所、お寺、展覧会などのポストカード、海外の観光地から送ったり、お礼状に使う程度で、タイトルから、戦前の観光案内の意味しか想像できなかった。

 が、それは違った。当時は、まだテレビも、もちろんネットもない時代。新聞を中心に、ラジオや記録映画などのメディアはあったが、スピードと拡散力では、絵はがきが力をもっていたという。アメリカ人夫妻が日本の5万枚にのぼる絵はがきの蒐集し、その中から400点を限定し、またその中から数十点を展示(ホンモンではなく、拡大してプリントアウトされたもの)した企画。絵はがきを通して、日本の近現代史、日清戦争から大二次世界大戦までの事件や出来事やイベント、大日本帝国が領土拡大するプロセス、当時の世情をリアルに伝えるメディアとして、また有力なプロパガンダーとして、さらに出された文面からは、今日のSNS的な役割も担っていたことを教えられた。関東大震災の折には、大量に、またさまざまな種類の絵はがきが造られて、それが拡散されている。この分野の先行研究も進んでいることなど、まったくしらなかったテーマであった。

 と同時に、軍国、拡大路線の日本の広がりの歴史も、一直線ではなく、常に米英(特にアメリカ)を意識して、なんとか離れないでいようと、ドイツとの三国同盟には前のめりではなかったことなど、絵はがきの絵柄や種類でも分かるところかとても面白かった。他にも、満鉄の存在や、

  中でも、皇紀2600年を記念して、東京では、万博と、オリンピックを開催する予定でいたが、戦争の激化で中止になる。一足、絵はがきで、肌木では。他にも、札幌での冬季五輪も断念する。それが戦後、高度成長を背景に、1964~1972年の間に、東京五輪、大阪万博、そし札幌冬季五輪が開催されることになる。そして、コロナ禍の今も、東京五輪、さらには大阪万博、さらには札幌冬季五輪の誘致と、戦前も、戦後も、そして現在も、政治体制は変わっても、発想がまったく同じなのにはあきれてしまった。

 他にも近、現代史が好きには面白い話がたくさん合って、満足した。
 同タイトルの新書を買って、サインももらいました。

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6月の華光誌輪読法座

 華光誌輪読法座は、3ケ月かけて、1冊の華光誌の「巻頭言」「聖教のこころ」をまず1回目で、「誌上法話」を前後2回に分けて、輪読することにしている。今回が3回目なので、誌上法話の後半を読み切る予定だった。

 「ピッタリすぎる阿弥陀様」は、仏凡一体、仏心、凡心一体が中心で、かなり解説が必要だったり、丁寧に輪読をしたりで、終わりまでいかずに積み残してしまった。最後も、読みとばすには勿体ないので、来月に続きを読むことにした。われながら、小難しいところが多くて、その点では反省する。それでも、「ピッタリすぎる阿弥陀様」のエピソードは、懐かしくも、有り難い。真実そのものの阿弥陀様の方が、濁悪邪見の私めがけて飛び込んでくださるのだが、あまりにもあまりにもピッタリすぎて、もし1ミリでズレていたらよく分かったのに、あまりにもビッタリ過ぎて疎かにしていたという青年のことを紹介している。そのシーンは、いまも忘れらないほど、有り難かった。みんな遠いところを探しているのだけどね。
 
 次回は、7月3日(土)昼1時30分~4時30分

 華光誌80-2号「ピッタリすぎる阿弥陀様」の第3回目で、12頁の「己の正体を聞く」から最後まで。続けて、80-3号の巻頭言も輪読する予定です。

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6月の高山支部法座

 今年から5月の法座が、6月の梅雨の時に変更になった高山法座。久しぶりの雨の法座となる。今週末で、緊急事態宣言の解除が決まり、新幹線の乗客は(特に帰路)かなり増えていた。まだ夕方5時を過ぎだったところだが、飲食店も込んでいる。高山市は、まん延防止法の対象で、営業時間の制限があって逆に集中するのか。

 法座は高山の方に加えて、岐阜や東京(飛騨が地元)と、翌日は、富山・愛知からの参詣者。以前のような遠隔地からの賑わいはないが、それでもボチボチと解禁になってきている。30代の若い方も数名あるが、高山支部のみだと高齢化が進んで後継者が育っていない。40代、50代の方に、ご縁がないわけではないのに、もう一押しが足りない。何がネックになっているのだろうか。

 初日の夜座は、いろは歌のもとになった「雪山童子と羅刹」を中心に、この文を、源信僧都が、「うかうかと聞くな。頑な犬は、投げられる石に向うが、獅子は、それを投げる人間に向ってくる」というたとえをもとに、火の粉をはらうのではく、命を捨てて聴く、火の元を消す法であることをお伝えした。ただ、座談でも、「いろは歌」に関心が集まり、そこを喜んでおられたのは、まあ予想通り。

 翌朝は、やはり源信僧都の「横川法語」をいだだく。法語なので、繰り返して音読いただき、味わいをいただく。高山の方の大半は、第一段の「まず三悪道を離れて人間に生まれたること、大きなる喜びなり」のところで喜んでおられる方が多かった。本来は、第二段の「本願に遇った喜び」に裏付けられたものであり、その本願に遇うことは、第三段の、私の妄念と、如来の念仏の関係をよくよく心得て聞かせていただくのだが、この辺りは、完全にスルーされていることも気になった。喜べなくても、また分からなくてもいいので、法話の主題にこころをかけて、ひっかかって聞いていただきたい。自分の喜べるところだけで留まっていては、いつまでも法が深まりも広がりもなく、マンネリ化した聞法に終わてしまう。

 昼からは、『御伝鈔』第七段、信心一異の諍論をいただく。これは、次号の華光誌の巻頭言に記載しているが、ポイントは、法然門下380余名の中でも、法然聖人の真意をえたものは、わずか5、6輩であったこと。名号だけでなくて、それを信じる信心までも如来から賜ること。それが、いともやすいようにとられているが、いかにとんでもないことであり、また聞き難いとこであるのか。親鸞様の「往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」のお言葉を頂いた。他力廻向の信とは、「まったくわたしくなし」を、わが身のところに引き寄せて聞いて頂きたかった。

 正直、予想していたが、なかなかここは伝わりづらかった。でもあきらめないで、何度でもご縁を結んでいくしかない。

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まるごと! 龍谷大学ミュージアム』展

『まるごと! 龍谷大学ミュージアム』

 龍谷大学ミュージアムが日本初の仏教総合博物館としてオーブンして10年。それを記念した企画展。緊急事態宣言の発令があって、一時、ミュージアムも閉鎖。そのまま終わってしまうかと思っていたから、会期延長の上で、また再開された。

 所蔵品の提示なので、ほとんどがこれまでの展示で観たことがあるもだが、一同に会するのはよかった。しかも今回は撮影OK。せいぜいSNSでCMしてください、ということなのであろう。

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 浄土真宗は仏教美術の関して、特に仏像の分野では、新興勢力で、信仰歴史も浅く、弥陀一佛なので、バリエーションも乏しい。(といっても1点だけ展示↓)

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 ただ西本願寺は、大谷探検隊の歴史があり、シルクロードやガンダーラの仏教美術とのつながりもあるので、収集品にも、古い(2~3世紀とか4~5世紀)ガンダーラ、マトゥラーの仏像や神像が、半数を占めていた。不思議と、東南アジアや中国、また今のインドのものよりも、このころの仏像は、写実的なリアリティーがあるだけでなく、日本人の琴線に触れるような哀愁あって、人気もある。

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 また、仏像だけでなく、お釈迦様のご一生を表す仏伝浮彫の一部も多く展示されていた。これは、釈尊の前生譚で燃灯授記↓

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 いろいろと撮影したので、合間、合間に紹介できればと思っている。
 

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パーソナリティ変化とは

  2009年6月19日のブログに「人格変化?」と題した記事があった。12年後の今月の月例会でも、「パーソナリティ変化とは、どういう意味か」という問いがでた。面白かったので再投稿するが、12年前の記事を一部を抜粋すると以下のとうりとなる。参考までに。

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 直接のテーマとは違ったのだか、文章にあった、「人格変化」という言葉をめぐり、ロジャーズのカウンセリングとの違和感を表明する参加者があった。 一般の宗教や政治がそうであるように、煽動されたり、治療されたり、洗脳されて、その人自身の個を失って、人が変わってしまうというイメージがあるのだという。

 この場合、問題になるのは、「人格」という訳語の持っている曖昧さにに起因しているの確かだ。しかし、「人格」のもつ定義の相違の話しで終わらず、その背景には、それぞれのもつカウンセリング観が垣間見られたようで、興味深かった。

 普通はpersonality(パーソナリティ)の訳語として、「人格」が用いられる。その場合、personalityという単語には価値的な意味が含まれていない。しかし、日本語の「人格」には、「人格者」という言葉があるように、価値まで含まれていることが多く、用語の定義を定めておかないと混乱を招くのだ。また、日本では、「性格」と「人格」とは、普通は使い分けられているが、英語ではpersonalityが両者を示すこともあって、この点でも曖昧な用語となっている。

 このパーソナリティも、人格や性格と訳さずに、そのまま「パーソナリティ」と使われることも多くある。ロジャーズ全集では、「Personality changes」を、「パーソナリティの変化」と訳されている場合がほとんどだ。第13巻は、ずばり『パーソナリティの変化』。

 外来の新しい概念を、これまでの既製の言葉の範囲で説明しようとするので、さまざまな問題や誤解が生じて来る。その点では、日本は、新しい外来語を、聞こえるままにカタカナ語で使用するという便利なものだ。でも、近頃は、専門語~経済でも、科学でも、コンピューターでも~、横文字ばかりが氾濫して、ほとんど意味がわからないことが多い。

 これは、仏教の伝来からそうであった。インドからシルクロードを通って、中国へ。中国仏教は翻訳仏教だといってもいい。インドで生まれた仏教が、一度、中国で咀嚼されている。その点、日本では、常に中国の言葉-漢訳をそのまま読む(返り点や訓点をつけて)という、なんとも賢いというか、効率的で、ある種狡賢い戦法を編み出していた。言葉の翻訳をめぐる問題は、古くて新しいテーマなのだ。

 もちろん、人格の変化-Personality changesをぬいて、ロジャーズのカウンセリングを語ることはできないのはいうまでもない。

  ところで、人格変化-Personality changesとは、

「個人の人格構造が、表層・深層両水準において臨床家が合意する方向へと変化することであり、すなはち、統合が増大すると、内的葛藤が減少すること、充実した生に使えるエネルギーが増大することである」

 と、ロジャーズは語っている。「臨床家が合意する方向」というのが、またひっかかるかもしれないが、とにかく成長と同義で使われていると見ていい。

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6月の真カ研月例会

 6月の真宗カウンセリング研究会の月例会。

「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(ロジャーズ選書(上)収録の新訳)の輪読だ。このロジャーズの論文は、ぼくが担当を始めてからでも3度目の輪読となる。前回からは10数年が経過して、参加の顔ぶれは大きく変わった。カウンセリングに関しては、初心の方も多いので、新鮮な気持ちで関わられていただく。

 まずその冒頭。大切なのは六条件に入ってからたが、その前提となる「問題」は、その問題提起の部分で、ここが理解できないと、この先なにを言わんとするのかがボヤてしまう。その割にはあとが大切なので、読みとばされていく部分でもある。

 内容とは関係ないが、今回の発表は、用語や言葉の意味の説明に努力してくださったことである。ただ惜しいことに、ここでは何が一番言いたいかのという点では、みんなよく分かっていないという印象を受けた。「木を見て森を見ず」ではないが、用語の一般的な説明も大切りが、あくまでも木の部分なので、全体像としての森をつかんでいかないと、余計迷ってしまう。レジュメの説明を聞いても、ただ本文を写しただけでどこがポイントなるのが伝わってこない。また感想を出し合っても、自分に引き寄せたところでしかモノがいえない。すると、自分に響くものがないときは、何も出てこず默るしかなくなる。もちろん、丁寧に用語を押さえることも必要だし、そのまま聞かせていただくことも大切だ。もう一段階、ぜひ、ここで何が一番言いたいのかを探る訓練をしてほしい。そのためには、読む力、読解力を磨く必要がある。そういうと、何か特別なもので、読解力があるとかないとかの問題になりそうだが、ただダラダラとすべてを聞くのではなく、何がポイントなのかを考えながら読む「クセ」をつけていくことが大切ではないか。もちろん理解力も必要なのだか、その上で、ポイントをおさることを常に努めていくのてある。そこから、始めて、自分に引き寄せたところでの問題がでてくるのではないだろうか。

 これは、ミニカン等で学んでいる「聞くコツ」と同じだと思う。もう一歩の成長を望むなら、「わからない」「難しい」「ここがかっこよかった」といった自分のところに引き寄せらた感想で終わるだけなら、いつまでも深まってはいかないのてある。

 積極的に関わるには、せめて事前に読んでくる。分からないことは、ネットで調べればだいたいは分かる。それでも分からないときは尋ねればいいので、それを前提にした上で、もう一度も読み、みんなポイントを掴み、その上で感想を述べていく。そうしないと、単なる味わいだけで終わって、輪読の意味が薄れる気がしてならない。

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華光誌編集作業終わる

 支部長研修会と連続するが、華光誌編集作業のために事務所も出勤日となる。通常は、土曜・日曜日の宿泊法座があると、月曜・火曜日が休みとなるのだが、今回は変則的なに休みをズラして、火曜日に印刷所渡しを目指す。

 もうほとんどが完成していて、金曜日でぼくのところでの作業は終わっていて、あとは短い後記が入れば、最終校正をする段階まできている。校正をすればするほど、誤字が見つかるものだが、最終チェックでは、細かな校正をせずに、全体を眺めて統一感や、カット・タイトルの微調整などの指示を出すに止めていく。

 夕方には終わったが、一応、明日の午後一番渡すことにして、余裕を持たせた。

 誌上法話は、昨年9月の永代経法座で、初法話を頂いた高取師。ご因縁の深さを味わうと同時に、信の座に安住せずに、そこから出て聴く姿勢を聞かせていただく。タイトルも「親指のふし」から「信心の落とし穴」。何度も「親指のふし」や黒河氏の言葉で出てくる。仏凡一体の味わいも、高取師のお父様からご教示。ほんとうは、前号の誌上法話「ビッタリ過ぎる阿弥陀様」と、順番を入れ換えた方がよかったかもしれない。合せてお読みいただくと有り難い。

 完成予定は6月29日なのだか、都合で、発送日は7月2日になる。お楽しみに。

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ご示談CD「我に勝算あり」

 支部長研修会の実習で、ご示談CD「我に勝算あり」を聞き、分かち合い、研修をすることになった。

 このご示談の場にぼくも居た。いまから40年前のことだが、ぼくにとっても、翻る大きな転機となった法座だ。いま聞き返しても、そのときのことを思い出す。全身が、しびれてからだが動かなくなった。盛んに念仏を称えたが、念仏と自分との間に隔たりを感じていた。「ああ、ダメだ」と感じながらも、一方では「大丈夫だ」と言い聞かせている自分がいたのだ。それからの1週間ほど、四六時中、自己の信を「ほんとうにこれでいいのか」と考えつづけざるおえなかった。夢の中にいるように、ポッーとし日々をと送った。担当する「人生を語る会」(信仰体験発表の拡大版)が迫っていたのだ。

 残念なのは、録音の関係でK先生の声が聞きとれないことだ。最初に「後生がつまりません」もしくは「苦になりません」といった類の声から始まり、いきなり悟朗先生のヒートアップした声、「いまの法話を聞いておられたのかどうか、どっちや!」と。華光大会の最後のご法話の後の全体座談会での出来事だ。司会の黒河さんの声も若い。悟朗先生が、K先生の気持ちを代弁しなからも、押したり引いたり、強弱をつけたお話をされる。「論註」にあるたとえ。地中の暗闇で過ごし、夏に生まれて夏に死んでいくセミは、春も秋も知らないものは、いまが、夏だとも分からないというのである。それを、梅の実との対話で、私の知恵のなさ、それでいてその知恵で如来様をはからう愚かさを巧みに説いていかれる。

 ほかにもM先生、A先生の声が聴こえる。お同行さんも数名、中でも、北口さんの迫力はすごい。いまなら完全なパワハラ、人権無視もいいところの言葉が出てくる。が、それでいて単なる罵声ではないことは、聞いてみればわかる。最後は、号泣しながら必死にたのまれていく。それでも動かないK先生に、逆にすごさも感じた。すぐに雰囲気に流されたり、妥協したりはされていない。

 そして、今のお勧めと根本的に違うのは、誰もお念仏を勧めないことだ。「とりあえず称えましょう」とか、「念仏しかない」とか、「願われています」などという寝惚けたことをいうものは誰もない。異口同音、「今、ここで、聞け」、これまでのことは関係なく、今ここで「一歩踏み出せ」、胸を眺めていないで「顔あげて先生と向き合え」というばかりである。正直、押すだけでなく、もう少し引く人や転換させるお勧めがあってもいいとは思うが、一貫したところに凄味も感じた。

 それはお勧めされる悟朗先生も同じだ。強弱をつけたお勧めでK先生を促す以上のことはされないない。如来様に勝算がある。それを今から伝えるがその覚悟があるのか。その返事はいかんと迫り、K先生が動かれるのを待ちつづけておられる。この法座が終わってから、そのときの「我に勝算あり」がなんだたのかを教えてもらったが、ハッキリと先生の中に、見えているものがあったのだ、しかし、それを結局は、その場では伝えられなかった。K先生の一言を、待ったおらたのだ。待ち方は静かなものではなく、厳しい待ち方ではあるが、相手の一歩を無視したお勧めではない。

 「ああ、産婆(助産師)さんだなー」と思った。どこまでいっても、K先生の問題。K先生と如来様の問題。K先生が踏み出されないかぎり、それを促し、応援することはあっても、それ以上は手を出しておられないのである。

 しかし、促しに答えられないまま、時間切れとなった。そのK先生も昨年の4月にご往生された。悟朗先生も、北口さんも黒河さんもそうだ。そのおかげで、ぼくにも大きな幸せかおとずれることになる。みな大芝居を打ってお伝えくださった権化の仁であったのだ。南無阿弥陀仏

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『支部長研修会』~今の課題~

  昨年は、最初の緊急事態の解除の直後だったので、1日だけで、Zoom参加者が半数以上いた支部長研修会。今回は、緊急事態が発令中だが、例年どおり2日間の日程で行う。ただ食事、宿泊は各自、懇親会もなしなのは寂しい。飲食をしながら、少人数で、お世話方のお気持ちを聞かせていただける貴重な機会なのだが、今は、我慢の時だ。

 リアルな参加者を各支部1名と絞ったら、Zoomは東京支部だけで遠近各地から華光会館に参集くださった。初日は、各支部の報告や問題点。2日目は午前中の前半は、本部からの会計や行事の報告などを行って、残りは研修とした。

 この1年間以上、法座の形式は大きく変わった。これはまったく想定外。法座の中止や、人数制限や日程の縮小、懇親会の中止。他の地域間の移動も自粛を求められる。人と人とが集い、触れ合うことが制限されている中でのア座活動は、難しい点が多かった。地域差も激しく、東京は1年半、リアルな法座はない。北陸や新潟方面の方は、京都には誰一人お参りされてこない。リモートがあっても、お会い出来ない方も大勢おられる一方、リモート法座ならではの思わぬ出会いもあった。今後もコロナ禍で、どのように法座を行うのか。リモート法座の持ち方は? 特に座談会の司会や進行が課題だし、新しいメディアを使った発信なども、これまでに考えたことがない課題もたくさんあった。まだまだ不慣れなことも多く、勉強していかねぱならない。

 現状は、法座の規制の中でも熱心な方も多くて、またご往生の後で、生前の御礼にと、ご遺族からのご喜捨やお布施が続いて、昨年、今年ともに、会計や運営面ではうまく進んだのは、ほんとうに有り難かった。ただこの数年、会員の高齢化が急速に進み、病気や老、そして死亡される方が急増し、会員数も低下傾向が続く。厳しい状況を打破するためにの、新たな取り組みも必然となっている。差し当たっては、10代20代の学生世代の活性化が求められている。法座活動を促進化する意味でも、若い人達の参加を優遇する対応をすぐにでも初めたいと思っている。

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リモート同窓会、いや同僧会か

 2年に一度、大学の同窓会がある。同期入学の真宗学専攻の人達で、完全に同僧会である。今年は、還暦祝いを予ていたが、コロナ感染拡大で、早めに中止が決まった。もし開催されていても、緊急事態が発令中の京都ではアルコールは飲めなかった。

 その代わりに、リモート(zoom)同窓会が開かれることになった。この年代は、ネットに強いものいれば、苦手という方もあるが、20名ほどが集った。ぼくはリモート飲み会は久しぶりだ。昨年の今頃は、珍しさもあって何度か開いていたが、物足りなさもあってほぼやらなくなっていた。

 今回面白かったのは飲む人が多かったことだ。おかげで、酔っぱらいが出てきたら、よく分からない話を聞かされたり、話者が固定してしまったが、リモート飲み会でも、本気で飲まないと面白くない。司会者もなく、また同窓生でも、「初めまして」という方もある。リモートでは話し出すタイミングが難しかった。ブレークタイムなどを使ったりするのも手だなと思いながら、それでも3時間近く付き合ってお開きになった。だいだいはたわいない話だが、中には刺激を受ける話も出たりしていた。

 同じ時間帯、隣室では、連れ合いも先日の劇団公演の打ち上げでをしていてリモート(zoom)飲み会中。例によって、彼女はしっかり酔ってましたが、これが飲み会の正しい姿。

 来年は、ぜひ、リアルで集まりたいものだ。 

 

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『御伝鈔』(9)第八段~善光寺との関連~

ところで、善光寺の阿弥陀如来について触れておいた。詳細は、『三帖和讃講讃』下巻・200頁を、御覧いただけばわかるので、今は簡単にのべる。

「牛に引かれて善光寺参り」で有名な善光寺(長野市)は、推古天皇十年(602年)創建と伝えられる。住職は、天台宗「大勧進」貫主と、浄土宗「大本願」の二寺で務められているが、この「勧進」「本願」の名からも、このお寺の性格が窺える。ご本尊は三国伝来の一光三尊(一つの舟型の光背に弥陀三尊の三立像)仏で、日本に伝来した最初の仏像といわれる。百済の聖明王から欽明天皇に献上されたが、排仏派の物部守屋によって、難波の堀江に廃棄(ほとけの名の由来の一つ)したものを、本田善光が発見し、背負って信濃の自宅に安置したのが善光寺の元(『善光寺讃』一部に)となっている。同時に、善光寺の聖は、生身の阿弥陀如来として仰がれ、東国の阿弥陀信仰の霊場としての崇拝されてきた。親鸞聖人、特にや一遍上人との関係がとても深い。
 親鸞様は善光寺の勧進聖だったという説もあるが、それは聖人の御影の持ち物からもわかるという。いずれにせよ、親鸞様が、仏教伝来に絡んで、善光寺の和讃を造られたり、越後から関東に移住される時にも立ち寄られたとか、当時から阿弥陀信仰の東国の中心地であったことから、何らかの関連性が推測されている。
 
 華光会の聞法旅行でも、親鸞聖人の旧跡として、善光寺に2度参詣しているが、境内には親鸞聖人の立派な立像が建っていた。

 最後に、親鸞聖人の主な御影は以下のとおり。テキスト25頁に写真付きで掲載されているので、ぜひご参照ください。

国宝「鏡御影」  専阿弥陀仏筆
(一説では、これがいまの「みぐしの御影」とも言われる。精密な尊顔のタッチは、日本の肖像画の中でも秀逸。一方で、明らかに身体の部分のタッチは異なる。それが『御伝鈔』の「みぐし」お顔の部分のみを写す)という記述と一致するのだが、仏絵師の名が異なっている)。
国宝「安城御影」 法眼朝円筆 親鸞聖人八十三歳
国宝「安城御影」(副本)蓮如上人の時代に模本。親鸞聖人二百回忌
重文「熊皮御影」 康楽寺浄賀筆(親鸞聖人伝絵の筆)追慕画

 

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『御伝鈔』(9)第八段~「定禅夢想」(2)

 ところで、本段は、第四段(「蓮位夢想」)と同じく、後に追加増補された段である。それでも、晩年の七四歳で追加された第四段に比べると、早い段階で追加されているのが分かる。現存するものは以下のとおりだ。
 
(1)高田専修寺本=十三段(上巻六段・下巻七段)覚如二十六歳
(2)西本願寺本 =十四段(上巻七段・下巻七段)覚如二十六歳
(3)東本願寺本 =十五段(上巻八段・下巻七段)覚如七十四歳

 しかも、(聖人誕生からの年代順が破られて追加されるので、流れとしては不自然で、聖人七〇歳の帰京後の出来事である。

 第一段=誕生から出家剃髪(九歳)、比叡山での修行。
 第二段=吉水入室(二十九歳)。
 第三段=六角夢想(三十一歳)。
 第四段=八十四歳の最晩年-お弟子の夢想で、親鸞様=阿弥陀様。
 第五段=選択付属 法然門下(三十三歳)
 第六段=信行両座 法然門下(三十四歳頃か)
 第七段=信心一異 法然門下(三十四歳頃か)
 第八段=七十歳(帰京後)-部外者の絵師の夢想で、親鸞様=阿弥陀様。

 またこれは、「蓮位夢想」でも触れたが、『御伝鈔』では、十五段のうち、上巻「六角夢想」「蓮位夢想」「入西観察(定禅夢想)」が 下巻「箱根霊告」「熊野霊告」の五段が夢告で構成されている。

 法然聖人と善導大師との夢中での出会い、親鸞聖人ご自身の夢告の記載、恵信尼公のお手紙(六角夢想・811頁、下妻夢想・812頁、寛喜の懺悔・815頁)にも夢告が、聖人の生涯の転機となる場面で現われている。当時の人々にとって、現実世界での出来事以上の宗教的な深い意味を持っていたである。

 つまり、第四段が、お弟子の夢想であったのに対して、第八段は、外部の方の夢想で、それが共に、親鸞様が阿弥陀様の化身であることを示しており、法然門下での出来事、つまり親鸞様と法然様は師弟はまったく一致しており、しかもその後継者は親鸞聖人であって、それは阿弥陀様の生れがわりであることを述べるために追加されたと思われるのである。

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『御伝鈔』(9)第八段「定禅夢想」(1)

 聖典講座は、『御伝鈔』の第9回目で、上巻の第八段「入西鑑察」とか「定禅夢想」と名付けれた段である。

 正直、段名を聞いても、よく分からない。難しい四文字熟語のようだが、「入西鑑察」の「入西」はお弟子の名で、常々、お弟子の入西房坊が、親鸞聖人のお姿を写したいと願っていことを、親鸞聖人がお察しになり(鑑察)、それを許し、絵師の定禅法橋を指名されたというのである。鑑察とは、鑑は、かんがみる。察は、おもいはかる意味で、他人の胸の中を鏡に写して見るように明らかに知ることである。つまり、入西房の願いを親鸞様が察し、肖像画の許可をされたということである。

 ただ本段の意味からすると、「定禅夢想」の方が相応しい。「定禅」も人の名だ。入西房の願いが聞き入れられ、京都七条あたりに住んでいた(朝廷から認めれた正式の)仏絵師がお召しを受けて、すぐにやってきた。定禅法橋が、聖人の尊顔を拝するなり、「昨晩、夢に拝した聖僧のお姿と、少しも違いがありません」と感激で咽びながら、その夢を語られる。
 夢では、二人の僧侶がお出でになり、お一人の肖像画の依頼を受けた。あまりに尊いお姿に、「このお方はどなた様ですか」と尋ねると、「善光寺の本願の御房です」と申された。善光寺の阿弥陀如来は「生身の阿弥陀如来」なので、阿弥陀様に出会い、身の毛がよだつほど感激し、「お顔だけを描けばよい」との会話で、夢から覚めた。今、親鸞様のお姿はまったく同じあるので、「お顔だけ描きます」と。
 つまり、外部の仏絵師である「定禅」が、不思議な夢告「夢想」を見て、それで親鸞聖人こそは生きた阿弥陀如来さまであること示される段なのである。 

 それを以下の三段に分科して窺っていいった。

(1)「御弟子入西房 ~ 法橋を召し請す」
  入西房が聖人の鑑察に感激する

(2)「定禅左右なく ~ 九月二十日の夜なり」
  定禅法橋が夢想を語る

(3)「つらつらこの ~ 仰ぐべし、信ずべし」
  覚如上人の讃仰
 
そして、最後に「まさに親鸞聖人は、阿弥陀如来の化身であり、その教えは弥陀の直説である。五濁悪世の我々凡夫は、その教えを仰ぎ信じるしかない」と、覚如上人は結ばれているのである。

 さて、入西鑑察の「入西」とは、親鸞聖人常従の弟子であった入西房のことである。聖人の『御消息』四十三通(808)に「入西御坊のかたへも申したう候へども」(入西房にも手紙を差し上げたいのだが…)と出でくる。また、「親鸞聖人門徒交名牒」にも「二、入西 常陸国住」とある。一説では、沈石寺の開基の「道円」であるとか、またその子息の「唯円」という説もあったが、決まった定説には至っていない。

 その入西房が、聖人の「真影」(しんねい)。実物のそのままの姿を写したいと、「日ごろをふるところ」に、つね日ごろをとおして思っていたことを親鸞聖人が、「かんがみて」、鑑みて、察して下さったのだが、そのとき、「左右なく」つまり、左も右も顧みないほど直ちにこれらたのが、「定禅法橋」である。

 かれも伝不詳であるが、一説では、「鏡御影」の作者、専阿弥陀仏とも言われていたが、今は否定の声の方が多い。「法橋」とはもともと官僧の僧位であったが、後には広く、仏師や仏絵師にも適用されたもので、朝廷より位階をいただく正式な仏絵師であり、「七条辺に居住」していた。七条辺りは、ここは、平安期の定朝以来、鎌倉期の運慶、湛慶なども住居して「七条仏所」を造り、仏師や仏絵師が集まっていたところである。

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名古屋での東海支部法座

 今回は、名古屋市のお寺が会場だ。

 法話は、広島と同じく「横川法語」が題材。でも違いは、広島では完全なリモートの法座、東海は対面での法座となった点だ。

 法話だけなら、けっこうリモートの方が、丁寧に説明できたりもする。また座談会になっても、中心的に話してくださる方があれば、盛り上がる。ただし、同じ場に身を置いて、味わうということになると、そこは対面での意味は大きいと思った。

 法語を三段落に分けて音読し、みなさんにも繰り返して読んでいただいた。短く、そして身近な法語は、繰り返しては声に出して味わうことに意味がある。そのあと、解説だけでなく、味わいをみんなで分かち合った。

 味わいを聞いて感じたことは、法語の言葉と自分の心境を比べて、「ああだ、こうだ」という方が多いことだ。もちろん自分の心境を語ることも大切なのだが、まずは、法語をしっかりと聞いていただきたいなと。何を源信様はお伝えしたいのか。そのお心をお聞きするために、何度も恩徳をお願いしたのだ。解釈や言い訳はぬいて、まずはそのままいただいてこそ、味わえることもあるのではないだろうか。

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『AGANAI』~地下鉄サリン事件と私~

長女と京都シネマに出かける。娘と二人だけでの映画は、久しぶりだ。連れ合いは京都みなみ会館で、別の映画を見に行った。映画のあと、二人でまったりとスィーツを食べて帰ってきた。でも観た映画のテーマは重かった。

『AGANAI』(あがない)~地下鉄サリン事件と私~である。

 地下鉄サリン事件が起こった時、ぼくは新婚旅行中のイタリアにいた。日本でたいへんなことが起こっているが、詳細が分からないまま、地下鉄のイタリア版のキヨスクに、麻原彰晃が表紙を飾る雑誌や新聞が、ズラッーと並ぶ異常さ。当然、長女は、まだ生まれる前だ。たまたま授業の課題で、映画「A」や関連の図書を読んでいたタイミングだったので、興味をもって映画館にいった。

 さて、 地下鉄サリン事件は、14名が犠牲になり、6000人以上が負傷し、事件から25年以上が経過したいまも、後遺症で苦しむ人たちが多くおられる。加害者側も13名が死刑になるという、未曽有の大事件である。監督は、そのサリンが散布された車両に乗り合せたために被害者として数奇な人生を送らざる得なくなる。勤務先の電通を退職、また元オウム信者との結婚と離婚、被害者団体と問題、今も後遺症に苦しめられているという。

 その監督が、事件の被害者であるオウム真理教の後継団体アレフとの広報部長である荒木浩氏と向き合う。この人、森達也監督の「A」でも中心になっていた人物だ。

 向き合うといっても、面と向って事件や信仰を問うのではなく、時間をかけて関係を構築し、そして二人でお互いの故郷や学生時代の思い出の地を、電車で旅をするロードムービィであり、バディ(相棒)ムービィなのだ。長年の親友のように笑い、音楽を共有し、童心に戻って水切りをして遊び、その親密さの中から、彼のことばを引き出し、時には被害者の心情をぶつけるという手法だ。

 両者には共通の点が多い。お互い同じ丹波出身(あいはらは兵庫県側、荒木は京都府側)で、また京都大学出身で1年違いで、同じ時間と空間を共有してきたのだ。しかも、京大の学園祭のイベントにきた麻原に、一方は野次を飛ばし、一方は講演を聞いてその不思議な容貌に引きこまれ出家をするというのだから、縁の不思議さを感じずにおれない。

 故郷や実家以外にも、京大キャンパス、ユニクロでの買い物、鴨川や比叡山、そして幼少期を過ごした高槻(摂津峡をハイキングする)など、地域的には、ぼくの身近なところで語り合いがなされていたことも、親近感が生まれた。

 そして、荒木の子供時代の精神的な体験談、たとえば欲しかった筆箱を手に入れたあとの色あせていく感覚や、弟が病で死にかけたときの衝撃などの話を詳細に語られるだ、けっして特殊ではない、普遍的な宗教情操の持ち主であることに共感を覚えた。

 彼自身は、一連の凶悪なオウム事件とは直接の関係はなく、その経緯や真実を知る立場にはない。しかし、首謀者である麻原の教えをいまなお信じ、明確な総括や反省をおこなわないまま勧誘活動を続けて信者を獲得している以上、無関係とは言い難い。しかも、これまで被害者やその遺族とは、まったく向き合ったことも、その苦しみも想像したこともなかったことが、映画のプロセスで明らかになっていく。当然、彼からは謝罪の言葉は、最後までうまれることはなかった。

 権威や力は目には見えない。たとえ二人か対等な形で向き合っているように見えても、二人のあいだには隔たりがある。加害者側の負い目、被害者側の攻撃性(傷つきからの)が、親密さの表情の合間に、態度や姿勢として表れてくるのを目撃できただけでも面白い映画。見終わった直後よりも、余韻が味わえた。A

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