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京都支部法座~源信和尚~

 京都支部法座は、「源信和尚」について。

 永代経法要で、源信和尚(恵心僧都)についてのご法話があった。主に『横川法語』であったが、その事跡について簡単に触れられた。皆さんがあまり御存じでない方が多かった。これまで、『正信偈』や『和讃』のところて、何度も悟朗先生から聞かせてもらってきている。皆さんにも、それを分かち合ってもらうことにした。

 詳しくは、『三帖和讃』講讃(増井悟朗著)の、264頁の源信僧都の略伝を参照ください。

 法話の後半は、『往生要集』の不浄観と、『白骨観』の文をいただく。こららも解説よりも、ご文を味わうのが一番。

  白骨観の文  源信僧都

 此の骨は、我(われ)為(な)りや、我に非(あら)ざる為(な)りや。
 答えて謂(い)う「我に非ずも、身を離れず。自他彼れ此れ共に白骨なり。身と命と財との三つ離散(りさん)する時、ただ白骨のみ残りて野外に在り。予(よ)が年齢(よわい)、既に七旬に満(み)つ。既に此の白骨を顕(あらわ)さんこと須臾(しゅみ)なり。悲しき哉(かな)、此の白骨を顧(かえり)みず、名利(みょうり)の心地常に断ぜず、手を以て摩(な)で触れるに何ぞ穏(おだ)やかなること有らん。倩々(つらつら)一期(いちご)の栄華(えいが)を思案して、ただ白骨を帯(お)びて歳月(さいげつ)を送る。白骨上に衣裳(いしょう)を装着(そうちゃく)して、白骨の身を以て、ただ世を渡るのみ。此の白骨久しく世に在らざれども、憑(たの)んでも憑(たのみ)き難きは、薄(うす)皮(がわ)ひとへの白骨なり。願わくは仏神よ、此の白骨を哀れんで、臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)に往生を遂げんことを」と。

 

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