百ケ日法要~『横川法語』~
2月に葬儀があったN家の百ケ日法要。
法話は、源信様の『横川法語』を頂く。短い法語だが、そのお心は深く、重い。
第一段の冒頭。「まず三悪道を離れて人間に生まれること、おおきなるよろこびなり」と始まる。これを、わが身にかけて頂くだけでも、生まれ難い人間に生まれたこを、ほんとうに喜んでいるのか。地獄、餓鬼、畜生の三悪道を離れ、やっと人間と生まれたながらも、結局は、地獄や餓鬼、畜生ような生き方をしてはいないか。
もちろん人間に生まれても儘ならないことばかりなのだが、それはこの世を厭うたよりであり、そして菩提を?う(別バージョン)しるしである。仏法を聞く縁となる世界なのだがら、まず人間に生まれたことを喜べと言われているのである。
そして第二段では、人間に生まれて仏法を聞く身となって、深き弥陀の本願に出会ったことを喜べと言われている。
「人間に生まれたることを喜ぶべし」
「本願にあふことを喜ぶべし」
喜び、喜びといっても、ただこの世の幸せや、尊い命を恵まれたことを単純に喜んでいるのではない。その根底にあるのが、弥陀の本願に出会ったことの喜びがある。三悪道では聞くことが出来ず、生れ難い人間に生まれたればこそ、遇い難い本願に出遇わせて頂けるというのである。
最後の第三段では、
「妄念は凡夫の地体なり」
「妄念のほかに別の心なきなり」
「臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞと…」
「蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへして…」
「妄念のうちより申しいだしたる念仏は…」
と、短い文に5度も「妄念」という文字がある。「妄念妄想」とよく使われるが、妄念とは、「真理・真如に離反した迷いの心」という意味である。それが私の正体であり、仏法を喜んでいても死ぬまで離れることのない私自身なのである。
しかし、その妄念の凡夫であっても、また念仏を申すのが大儀で邪魔くさいあっても、その口から出る本願念仏こそが、「濁りに染しまぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず」だと結ばれている。
そのお念仏は、単なる念仏ではないのだ。本願の念仏なのである。
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