永代経法要・前期~法座は浄土の出店~
前期の2日間の永代経が終わった。緊急事態が発令されたが、キャンセルはほとんどなく、前期の最終日は定員一杯の40名が参加された。
体調不良で初日を欠席されたK先生も、2日目から元気にご出講くださり、朝、昼座2座のご法話をくださった。どんどん活性化されていく姿を目の当たりに、法話も核心に迫ってくださった。
「疫癘の御文章」(4-9)を軸に、朝座は、定業についてのご法話。衆生側、私の上で「無始以来つくりとつくる悪業煩悩」と、その業報としての実相について。業とは、本来、宿命通を悟った如来様にしかわからないものであるが、「卯の毛、羊の毛のさきにいるちりばかりも造る罪の、宿業にあらずといことなしとしるべし」のところを、時にユーモラスに、そして厳しくお聞かせに預かった。
昼座は、如来様の大願業力について。つまり、如来様の上での三業で修めてくださった行は、一念一刹那も「清浄ならざることなし、真心ならざることなし」であって、そしてその至心(真実心・清浄心)で、南無阿弥陀仏の名号成就くださり、「本願の名号は、正定の業のなり」と、私に廻向くだされるおいわれについてお聞かせに預かった。
特に、この「疫癘の御文章」は、別名「勅命の章」といって、阿弥陀様直々の説法がしめされているというのである。
「このゆえは、阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫(罪業のわれらたらんもの)、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずくふべし」と仰せられたり。
というのである。『御一代記聞書」にあるように、普通、阿弥陀様のことを教えてくださったのは、教主である釈尊であり、また七高僧や親鸞様、そして今、お取次ぎくださる善知識様だと思うのだが、実はそうではなく、阿弥陀様が直々に教えてくたさっているのである。これは決して蓮如上人の言葉ではなく、弥陀の直説法なのだ。泥凡夫の姿には、風呂の焚き物にもならないほどの念の値打ちもなくても、その口から出るものがあまりにも尊いという、物種吉兵衛同行のエピソードを紹介くださったのが、とても有り難かった。
法座とは「お浄土の出店」だというのだ。その主はもろちん阿弥陀如来様である。
この腐っていく頭で道理理屈で聴く話でも、聴こえる話でもない。それを、体調不良で「出る」とか「やめるとか」を繰り返される、「わが身を惜しむ」凡夫丸出しを体現されているK先生の、同じ口を通して、阿弥陀様の直説法が聴こえてきたのである。南無阿弥陀仏
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