永代経の余韻~唯、漂うだけ~
永代経の余韻を味わっている。ご講師の法話を拝聴だけでなく、同行の感話も尊かった。これは華光の特色であるが、何も僧侶だけが伝導する特権を握っているのではない。むしろ、同行の声にこそ生きた念仏の証明(証拠)であり、在家止持の浄土真宗の特色がある。それが、布教師などの専門職が現われることで、真宗の活力が失われていたのではないか。今の真宗は、ハンドルはあっても、エンジンがない、もしかするとアクセルのない、ブレーキーだげの車かもしれない。命の通わない正しい(と称される)教義の羅列よりも、その方に息づいてる念仏の声を、ぼくは聞きたいのだ。
高山のOさんの感話は、「唯除」のこころについて。「必ず救うという大悲のお心です」という紋切り型の悠長な話ではなく、「世界中の人が救われていっても、私一人は除かれていた」という本願のお心を、わが身に即してほんとうにスッキリとお話くださった。
『仏敵』の中にある、伊藤先生の信をチクチクと崩しにかかる「坊さん」の質問である。「今、君は、生死の大海に漂ってる。向うから大木が流れてきたら、あなたはすがるかい?」と。「はい、すがります」と答えると、口々に「それではアカン(ダメ)」だと言われる。しかし、伊藤先生にはその真意分からない。実は、ぼくもここが引っかかったのだ。それに対するOさんの味わいは一言だった。
「すがるもすがらないもない。「逆謗の死骸」はただ漂っているだけだ」と。
これまでも、「すがってはならない」とか、「すがったまんま落ちていく」とか、「そこをお助けてくださるが阿弥陀様」とか、この意味がどうかこうかという、さざまな声を聞いてきたが、そんなものは分からない、ただ生死の苦海を漂い続けているのか、死骸の私なのだと。それが「唯除」のこころと、スッキリしたお話を聞かせていただけた。南無阿弥陀仏
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