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『御伝鈔』(8)第七段~対論の上人方~

   さて、前章「信行両座」と異なる点は、「信心一異の諍論(じょうろん)」は、「はかりきな諍論」であった点だ。「はかりない」とは、「おもいもよらない」ということで、何かが仕掛けられていたのではなく、話し合い、もしくは議論のなかで「おもいがけず論争」となったというのである。

 この信心一異の諍論の時期はいつ頃だったのだろうか。

 親鸞聖人の法然門下の時代は、建仁元(1201)年~承元元(1207)年(承元の法難)の間で、聖人が善信房と名乗られるのが、元久二(1205)年以降であることから、建永元(1206)年、聖人34歳の頃だと推測されている。

 では対論の人々はどんな方か。『歎異抄』には「正信房」の名はないが、ほかの2名と同じである。

「正信房」=正信房湛空上人(1176~1253・78歳)。徳大寺左大臣実能(さねよし)の孫で、天台宗の学僧から法然聖人に帰依する。常随の弟子として配流地にも同行と伝えられる。法然聖人の中陰(三七日法要)の施主。聖人の遺骨を分骨され、嵯峨の二尊院に御廟(現存)を建立する。その門流を嵯峨門徒と称する。

「勢観房」=勢観房源智上人(1183~1238・56歳)。一ノ谷の合戦で戦死した平師盛の子で、重盛の孫、清盛の曾孫だとも言われる。13歳の時、法然聖人の元に託され、慈円(慈鎮和尚)のもとで出家。聖人上足の弟子、感西上人に学び、その滅後は、法然聖人の寂滅までの十八年間(聖人63歳から80歳。ただし配流地・讃岐には同行できず)常随される。法然聖人の念持仏の阿弥陀如来像を付属。ご往生の二日前に『一枚起請文』を授かる。聖人の二三回忌法要に、廟堂を修復し知恩院大谷寺と号する。他に百万遍知恩寺の開基。その門流を紫野門徒と称する。

「念仏房」=念仏房念阿上人(1157~1251・95歳)。念阿弥陀仏と号す。法然門下に多い○阿弥陀仏は、聖の号。天台宗の僧だったが、30歳の時に大原問答に結縁して門下に入る。嵯峨の釈迦堂を再建し、往生院(現在の祇王寺)を建立。

 そして、建永元(一二〇六)年の出来事だとすると、各上人方の年齢は以下のようだ。

1)正信房湛空上人(学問)31歳
2)勢観房源智上人(持戒)24歳
3)念仏房念阿上人(道心)50歳
4)善信房親鸞聖人、   34歳
5)源空房法然聖人     74歳

 また「信行両座」で信の座の方々と、「体失往生」の證空上人は、
6)法蓮房称弁・信空上人 61歳
7)聖覚法印       40歳
8)熊谷直実 (生誕年不明)歳
9)善恵房證空上人     30歳

 法然聖人の比叡山での弟弟子の信空上人が61歳、念仏房念阿上人が50歳という以外は、20、30代の青年僧であったことが、新興勢力である法然教団の性格を顕している。同時に、湛空上人、源智上人、そして證空上人も、法然様のもっとも近くに使えた聖人のお気に入り方々であり、聖人亡き後、法然教団を引っ張っていかれた方々である。さらにぞれぞれが「学問」や「持戒」「道心」にかけては抜きんでいたお弟子方であるというのである。

 そんな方々でも、いやそんな方々だからこそ、「法然聖人」その方の「聖人」像を見つめられても、それを超えてその背後にある「弥陀の本願」の不思議が響いておられていたのか。決して他人ごとではない。

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