『御伝鈔』(8)第七段~まったくわたくしなし~
念仏どころか信心さえも「如来よりたまわりたる」。これはとんでもない話だが、よくよくお聞きしないと、一歩間違うと安易な信仰に陥ってしまうおそれがある。
例えば、他力廻向の同一信心であるがゆえに、一味であるといわれる。『正信偈』に「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入一味」とある「帰入一味」が、この段を表している。これは他力廻向の信のすばらしいお徳だが、下手をすると、「みんな救われている」「すべて他力のみ光の中にある」「すべてが平等だ」といったように、「みんな」や「すでに」と都合よくお救いを解釈して、厳しい詮索や求道などは浄土真宗にはないことを喜ぶ信仰にすり替えられていくところである。
しかし、『御伝鈔』にあたってみるとそんなことは言われてはいない。
「往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」
だからこそ、法然様の信心も親鸞様の信心も「他力よりたまはらせたまもう」もので、ひとつなのだと。
信心、信心といっても、それは「往生の信心」。浄土に生まれるタネとなる信心であって、それは、他力信心ひとつで救われていく、その「ことわり」(道理・おいわれ)を「うけたまわる」、聞信するひとつで、「まったくわたくしなし」となるのである。
この「まったくわたくしなし」の一言が効いている。「わたくしなし」とは、「私情を交えない」「自分の気持ちを交えない」ことだか、ここでは「自力が一切無効の身となった」という意味である。自力無効と捨て果てさせられたのだから、自ずと他力が満入してくるのである。決して、自分の都合で取り込んでいく話ではない。
堺の妙好人、物種吉兵衛同行の語録に
御領解文の初めに、「もろもろの雑行雜修自力のこころを振り捨てて」と仰せられてある。
「自力の心を捨てたら聞く物柄がないといわねばならぬが、それで聞きぞこないがないのや」と言われた。
「わたくしなし」がないとは、「自力の心を捨てたら聞く物柄がない」ところである。まさに娑婆のおわり、臨終なのだと。ここを外して、いくら一味だか、有り難いと、他力だと言っても、まったく詮無いことである。
法然聖人の三八〇余名の門弟のなかで、その真意をえたものはわずか五、六名だったという言葉は、八百年前のことではないのだ。
華光同人、三〇〇余名のなかで、さて真実信心のものはどうか? 南無阿弥陀仏
参照=『正信偈の大意』『帰入一味』増井悟朗講述(華光誌80-1号)
| 固定リンク
「聖典講座」カテゴリの記事
- 『口伝鈔』第七条「凡夫往生章」(2023.01.29)
- 『口伝鈔』第五条「仏智護念章」(2022.11.13)
- 『口伝鈔』第四条(2022.10.16)
- 聖典講座『口伝鈔』(1)(2022.10.15)
- 『御伝鈔』下巻第七段(3)「~廟堂創立の経緯とその後~(2022.02.22)