向き合う
永代経でのAさんの信仰体験発表に対して、Bさんから感想メールが届く。Aさんの喜びに対する不審を問う内容であった。Aさんの発表は、リラックスした態度で、時に笑いも誘う面白さもあり、率直な等身大の表明は、おおむね好評であった。その最後は、『悟痰録』の尾上実さんの言葉で結ばれた。それは朗読超えて、要点では嗚咽に近いほど声つまらせて読まれ、感銘をうけた方もあった。
が、Aさんはその最後の部分に引っかかったというのだ。
「それは尾上実さんの喜びに感銘しただけであって、所詮は他人の喜びではないのか。Bさん自身の一念はどこにあるのか」と。
それをBさんに伝えるべきかどうかを、Aさんは躊躇されていた。華光とのご縁の日が浅いAさんに対して、Bさんは積極的に声をかけて、、宿泊行事の度に一緒に食事をする仲間になったという。それだけに、その関係が壊れることを不安があったという。
相談を受けて、何をおいてもそれは問うべきであり、それが話せないようなら法友ではない。受けるだけの器量がBさんにあるし、お互いの聞法に上でも避けて通れない一点である。ただ大切な要点なのでメールでのやりとりで誤解を招くよりも、対面したところでこころを開いて伝えあってほしいとの旨のお答えをした。
今回の集いに、不思議なご因縁が整って最後に、Aさんの参加が決まった。Bさんは早くから申込まれている。
初日の全体会で「伝えたいことが」あるという表明で、同グループを指名。Bさんにすれば、前夜からドキドギされたというし、言い出したAさんもよく眠れなったというのである。2日目の少人数(6名)での分級座談で口火をきられたが、Bさんの一方的な指摘ではなく、なぜそう感じたかを、1年前に自分自身が有頂天から落とされ、止めを刺された自分自身の今の居所、そこに至る経過をからめて伝えくださった。まさに「わが信やいかに、他が信やいかに」である。自分を棚上げして、批判や評論だけならば易いが、自分のところも伝えくださったのが有り難かった。
同時に、単純に「善し悪し」ではなくて、Bさんの喜びの居所も聞かせてもらえるご縁ができたことも、尊かった。
「わが心にかまわずに、信を取れ」といわれる。、ゴチャゴチャしたわが心をいくらかまっても、そこに真実はない。といって、それが、華光の「求道カルタ」に「臭いものに蓋をする」とあるように、見て見ぬふりの喜びでは、これはまた空しいものである。
これをどう超えていくのか。
大事な一念をごまかさず、真摯に同人同士が向かい合い問う、そんな法座の場でありたいのだ。南無阿弥陀仏
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