『御伝鈔』(8)第七段~賜りたる信心~
ところで、この諍論は、唯円房が親鸞聖人からお聞きしたという形で、『歎異抄』後序にも残れさている。
そこでは、「如来よりたまわりたる信心」なので、法然様と親鸞様の信心はひとつだと述べられる。「如来よりたまわりたる信心」とは、阿弥陀如来より恵まれたご信心、つまりは他力回向の信のことである。同じ表現は『歎異抄』では第六章にもある。ところが、親鸞聖人の著述には同じ表現はない。聖人が「たまわる」という用例の大半は、「仰せ」や「教え」をたまわることである。余談だが『御消息』では、関東の門弟に銭をたまわった御礼に用いておられる。もっとも近い表現としては、「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき…」(『御消息集』三九通)とある。もちろん、他力廻向こそ聖人の信心の根底をなすもので、例えば、第十八願成就文「至心廻向」の読み替えなどからも明らかではある。
ちなみに法然聖人においては、このような信心一異に類似するの教説や法語は存在していない。
しかし、『和語燈録』(真聖全四)では、問答を設け、「本願の念仏は、智者が称えても、愚者が称えてもその価値には代わりない」ことを示し、さらに「心を澄ませて称えようと、散り乱れて濁った心で称えようと、その功徳はまったく等しい」と述べられている。これは称える者が加える徳ではなく、本願の名号の持っているお徳なのだから、一声一声が如来よりたまわった念仏であるといえよう。
確かに「南無阿弥陀仏」の名号を阿弥陀様から賜るというのであるのは、まだ理解できよう。しかし、その名号を信じる心(信心)までも、阿弥陀様から賜るというのであるから、常識では決してはかることのできない不可思議な世界だ。
では、そのお心はどこにあるのか?
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