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2021年5月の21件の記事

「花祭り」からの「広島支部ZOOM法座」

 4月8日は、お釈迦様のお誕生をお祝いをする「花祭り」だ。

 華光日曜学校では、4月は新学期なので、子供たちが演じるアトラクションの準備が間に合わないことがあるので、5月2週目に開くことにしていた。日曜礼拝になっても、その伝統だけは続いていた。今年も、5月になったが、他の行事の都合で月末となってしまった。

 本来は広島法座の予定だったが、広島にも緊急事態が発令されて、法座会場が使用できなくなり、急遽、リモート開催に変更。それなら、前半は日曜礼拝の花祭りにリモート参加してもらい、後半から広島支部法座を開いてもらうことにした。

 法話は、初めて担当される京都同人。子供は少ないが、大人は大勢参加される。お寺の住職夫妻もおられる。担当者は、あまり日曜礼拝の法話を聞いておちれないこともあって、また緊張もされるいるのは伝わってくる。その中で、頑張ってお伝えくださる。花祭りにちなんで、釈尊の「八相成道」について。惜しかったのは、子供さんには難しい内容だったことか。でもお疲れさまでした。

 終了後、「広島支部法座」に望む。完全なZOOM法座だが、これは2度目。ZOOM法座を初めて1年経つので、だいぶ慣れてきた。共有画面やチャットを使いながら、「横川法語」を味わう。法話の内容の前に、ZOOM法座の特色を生かしたやりかたにもやっと慣れてきた感じがした。共有画面で、法語を映し、チェックし、チャットでの質疑受ける。しかも小刻みに話し合いを持つなど、思った以上に成果が上がった、いい法座になったのではないか。南無阿弥陀仏

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5月の華光誌輪読法座

 今年になってから、毎月の輪読法座や仏書に親しむ会への参加者が増えている。コロナ対策のために道場で開き、しかも間隔をあけて車座になる。声が届きにくいのが難点だが、こんな状況でも集まってくださる方がるのが有り難い。

 『ピッタリずぎる阿弥陀様』の前半を読む。

 法話をするにも工夫が必要だ。難解なことばかりだと人聞いてもらえない。やさしく説くことは、身近な例話やたとえ話が大切だ。特に親子に対することや夫婦に関すること、そして日常のニュース、煩悩生活が続く限り、ネタに限りはない。しかし、そこからら先が難しい。頭で「分かった」「納得した」ことは、凡情で泣こうが、理解しようが、超えられない一線がある。信の一念の翻りの世界は、人間の知性や感情での理解を超えた世界だからだ。

 ところが、法話の後の質問でも、その大半は、自己をぬいた外側の問い。自分の理解できるところで、都合よく答えを選んでいく。結局、自分を問うのではなく、自分に答えを取り込んでいこうとするのだ。それではいくら聞いても超えていく世界にはでられない。聞法は、そう問うている、取り込んでいく、自分が問われていくのある。それでこそ、仏法に適うのたど。

 そんな意味ないのようの箇所に、反応される方があったが、なんとかそうならない自分が、そうなるにはどうすればいいのかという、自己に取り込んでいこうとする内容に終始されている。それどころか、「そんな無理なことを言われても、不自然になる」と、自分のありようを肯定していこうとされるのながら、なかなか聞くことは難しい。

 その自己に見切りをつけさせてももうないかぎり、法は届いてはこない。

 ここが紙一重のところ。

 

 

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向き合う

 永代経でのAさんの信仰体験発表に対して、Bさんから感想メールが届く。Aさんの喜びに対する不審を問う内容であった。Aさんの発表は、リラックスした態度で、時に笑いも誘う面白さもあり、率直な等身大の表明は、おおむね好評であった。その最後は、『悟痰録』の尾上実さんの言葉で結ばれた。それは朗読超えて、要点では嗚咽に近いほど声つまらせて読まれ、感銘をうけた方もあった。

 が、Aさんはその最後の部分に引っかかったというのだ。

「それは尾上実さんの喜びに感銘しただけであって、所詮は他人の喜びではないのか。Bさん自身の一念はどこにあるのか」と。

 それをBさんに伝えるべきかどうかを、Aさんは躊躇されていた。華光とのご縁の日が浅いAさんに対して、Bさんは積極的に声をかけて、、宿泊行事の度に一緒に食事をする仲間になったという。それだけに、その関係が壊れることを不安があったという。

 相談を受けて、何をおいてもそれは問うべきであり、それが話せないようなら法友ではない。受けるだけの器量がBさんにあるし、お互いの聞法に上でも避けて通れない一点である。ただ大切な要点なのでメールでのやりとりで誤解を招くよりも、対面したところでこころを開いて伝えあってほしいとの旨のお答えをした。

 今回の集いに、不思議なご因縁が整って最後に、Aさんの参加が決まった。Bさんは早くから申込まれている。

 初日の全体会で「伝えたいことが」あるという表明で、同グループを指名。Bさんにすれば、前夜からドキドギされたというし、言い出したAさんもよく眠れなったというのである。2日目の少人数(6名)での分級座談で口火をきられたが、Bさんの一方的な指摘ではなく、なぜそう感じたかを、1年前に自分自身が有頂天から落とされ、止めを刺された自分自身の今の居所、そこに至る経過をからめて伝えくださった。まさに「わが信やいかに、他が信やいかに」である。自分を棚上げして、批判や評論だけならば易いが、自分のところも伝えくださったのが有り難かった。
 同時に、単純に「善し悪し」ではなくて、Bさんの喜びの居所も聞かせてもらえるご縁ができたことも、尊かった。

 「わが心にかまわずに、信を取れ」といわれる。、ゴチャゴチャしたわが心をいくらかまっても、そこに真実はない。といって、それが、華光の「求道カルタ」に「臭いものに蓋をする」とあるように、見て見ぬふりの喜びでは、これはまた空しいものである。

 これをどう超えていくのか。

 大事な一念をごまかさず、真摯に同人同士が向かい合い問う、そんな法座の場でありたいのだ。南無阿弥陀仏

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第20回・真宗法座の集い


  ちょうど1年前の5月、緊急事態宣言の解除を受けて再開したのが、この「真宗法座の集い」だった。まだ恐る恐るという感じもして、参加者も少なめだったが、再開できたことがなによりうれしかった。

 それから1年。今度は、緊急事態宣言下だが、感染対策を十分とった上で開催した。

 記念すべき第20回である。

 初めてお会いする方、ご縁の浅い方、何10年ぶりに華光にお参りくださる方もある。この集い趣旨もよく分からないまま、こちらの意図が十分伝わらないかったりと、短期間(2日間)で、共に望むべき聞法の場を造っていくという理想に近づくには、欲張りすぎて中途半端になった気もしないではない。

 早くから少人数(結局、3グループ、5~6名に分かれた)に分かれて、向き合ったほうがよかったのだろうか。

 初日の全体会は、2日目のグループのために必要な時間だという気もするが、明確な意思があったならともかく、意図が理解されるまでに時間がかかることを思うと、もう少し早く進んだほうが聞法上では意味深かったのではないいかとも思った。

 特に、食事や懇親会での「場外」の交流ができない状況が続くのなら、事前に尋ねておくなどの工夫も必要かもしらない。

 それでも、グループに分かれてからは充実した部分もあったし、参加者からの申し出があって、感話というか、2回目の信仰体験発表を聞かせてもらえたりと、盛り沢山であったことは事実である。

 

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5月の月例会~新たな気持ちで~

  真宗カウンセリング研究会の月例会。

 開始前に、総会報告を兼ねた会報と今年度のパンフレットの印刷、その発送作業をお手伝いいただいく。N先生が、「テキストを読んでいませんので」と、30分は早く到着されるほど、気合いがはいっている。

 ぼくが担当を始めてもう30年以上経過した。研究会が発足して今年が60周年なので、その半分の責任を担ってきたことになる。今年からは、もう一度原点に戻って、「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(ロジャーズ選書(上)収録の新訳)を輪読する。これは、今から64年前、1957年に発表されたものであるが、カール・ロジャーズ論文の中、もっとも重要で有名なものの一つである。担当後でも月例会での輪読は3度目になるが、真宗カウンセリンーの態度でもある「パーソン・センタード・アプローチ(pca)」の基本に立ち返って、丁寧に輪読していきたいと思っている。

 昨年からは会場に加え、リモート(Zoom)での発信も行っている。年度初めの5月は、参加者が多いものだが、今回はその中でも特別だった。N先生もご参加くださり、会場に8名に、リモートでは14名で、合計22名が参加。10名足らずの月例会ではかなり活発である。久しぶりにお会いする方、今回が初参加の方、年齢層も20代から80代まで幅広く集まってくださった。

 御存じの方は御存じであろうが、カウンセリングの関わりが浅い方も多いので、もう一度、「カールロジャーズ」とはどんな方か? 「パーソン・センタード・アプローチ(pca)」の基本は何か? また彼の先駆的な役割はどこにあったのか? そしてこの論文の読む意味はどににあるのか? などをお話申し上げた。

 コンパクトにまとめるのには苦労したが、おかげ、ロジャーズが真のロジャーズになっていくプロセスを、改めて振り返らせてもらえうととになった。気づかせてもらったことも多くて、その夜は高揚感をもって床につき、朝方、早く目が覚めてアレコレと考えを巡らせることになってしまった。

 改めて、「カールロジャーズ」の生涯について振り返ってみたいと思った。
 
 

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長谷寺での衝撃

 朝は土砂降りの雨。五月晴れの季節のはずだが、今年はすでに梅雨入れをしている。史上もっとも早く、平年よりも3週間も早まっている。温暖化の影響なのか、桜といい、梅雨といい、異常気象が常態化しているようだ。

 雨は昼前にはあがった。ここまできたので、近くの室生寺に足を延ばすことにした。が、連れ合いは喪服で、足元が悪い。昼食を食べる場所も閉まっていたので、女高野といわれる室生寺を散策するには条件が悪すぎて、別の機会に譲るとした。道の駅で昼食を済ませて、長谷寺を目指すことにした。

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  観音様の霊場として、また「花の御寺」と呼ばれて、中でも牡丹や石楠花で有名だ。
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  ぼくはこのお寺で忘れならないことがある。
 昭和40年代、まだ小学校にあがるかどうかころだと思うのだが、家族でお参りにきたことがある。その時、門前に、白裝束の数名の男たちがいた。手や足がなかったり、黒眼鏡をかけてアコーディオンやハーモニカの演奏をしながら、物乞いをしていたのである。異様な雰囲気が漂っていた。戦争で負傷した傷痍軍人だというのである。もう50年以上前のことなのに、その異様な光景を覚えている。幼心に何か見てはいけないものに触れた気がしたのだ。同時に哀れに思ったことを父に話すと、父の一言に、さらに衝撃を受けることになるのだ。

 長谷寺のことは覚えていないが、ここで傷痍軍人の物乞いを見たことがこのお寺を印象つけたのである。

 それ以来に訪問なので、50年以上ぶりだ。

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 天武天皇の勅願によるお寺なので、歴史ある古刹である。しかし建物の多くは、近代(明治以降)のものも多く戦後の造営(五重塔)のものもある。

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 仁王門を抜けて↓

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 登廊(のぼりろう)を進んで、本堂へ。この登廊が優雅いい。↓

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 本堂は江戸期に再建されたものだが、14、5年前に国宝に指定された。長谷の舞台として有名で、中には内舞台もある。「大悲閣」とある。↓

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 そのご本尊が有名な、十一面観音菩薩立像で、10メートル以上の迫力がある。↓ 脇士は、難陀龍王と雨宝童子。

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 本長谷寺や五重塔を経由するコースをゆっりく歩いて巡った。↓

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 今回は、なにも衝撃をうけませんでした。

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お葬儀

 奈良国立博物館を巡ったばかりだが、また奈良を訪れることになった。奈良市を通っていくルートは同じだが、今度は、室生寺の近くの山寺である。

 お世話になってきた恩師の奥様がお亡くなりになった。いまも、一方ならぬお世話になっている。
 
 媒酌人をつとめていただいた後、ご挨拶に窺った時には、手料理を振る舞ってもらったことも思い出のひとつ。

 面識のある婦人会の会長さんの弔辞も有り難かった。仏法広まれのおこころで、ご法をお守りくださっていたのである。

 土砂降りだった雨もお見送りの時には晴れ間も覗いていた。お念仏と共に見送らせていただいた。南無阿弥陀仏

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京都支部法座~源信和尚~

 京都支部法座は、「源信和尚」について。

 永代経法要で、源信和尚(恵心僧都)についてのご法話があった。主に『横川法語』であったが、その事跡について簡単に触れられた。皆さんがあまり御存じでない方が多かった。これまで、『正信偈』や『和讃』のところて、何度も悟朗先生から聞かせてもらってきている。皆さんにも、それを分かち合ってもらうことにした。

 詳しくは、『三帖和讃』講讃(増井悟朗著)の、264頁の源信僧都の略伝を参照ください。

 法話の後半は、『往生要集』の不浄観と、『白骨観』の文をいただく。こららも解説よりも、ご文を味わうのが一番。

  白骨観の文  源信僧都

 此の骨は、我(われ)為(な)りや、我に非(あら)ざる為(な)りや。
 答えて謂(い)う「我に非ずも、身を離れず。自他彼れ此れ共に白骨なり。身と命と財との三つ離散(りさん)する時、ただ白骨のみ残りて野外に在り。予(よ)が年齢(よわい)、既に七旬に満(み)つ。既に此の白骨を顕(あらわ)さんこと須臾(しゅみ)なり。悲しき哉(かな)、此の白骨を顧(かえり)みず、名利(みょうり)の心地常に断ぜず、手を以て摩(な)で触れるに何ぞ穏(おだ)やかなること有らん。倩々(つらつら)一期(いちご)の栄華(えいが)を思案して、ただ白骨を帯(お)びて歳月(さいげつ)を送る。白骨上に衣裳(いしょう)を装着(そうちゃく)して、白骨の身を以て、ただ世を渡るのみ。此の白骨久しく世に在らざれども、憑(たの)んでも憑(たのみ)き難きは、薄(うす)皮(がわ)ひとへの白骨なり。願わくは仏神よ、此の白骨を哀れんで、臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)に往生を遂げんことを」と。

 

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「聖徳太子と法隆寺」展

 家族で奈良へ。緊急事態が発令されて京都国立博物館の「鑑真和上」展は休業となったが、奈良国立博物館の「聖徳太子」展は開催されている。前日までにネット予約し、指定時間を決めていく方式で、密にならず回ることが出来る。

 ならまちの町家カフェでランチをする。外食にはめずらしく、とても薄味のやさしい味つけでホッとする。

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 ブラブラと奈良公園の鹿にエサをやりながら歩く。連れ合いは、鹿との触れ合いの方が楽しみなようだ。

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 さて、今年が聖徳太子、千四百回大遠忌にあたり、ゆかりの寺院でも法要があり、奈良国立博物館「聖徳太子と法隆寺」展も記念開催である。

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 法隆寺には、何度もお参りさせてもらっているが、日本の世界遺産の第一号に相応しい仏教美術の宝庫である。飛鳥時代(7世紀)という歴史の重みが違う。

 本展も、いわば「和国の教主」。つまり、太子は、日本に生まれ、日本に仏教を広めれたお釈迦様であり、「聖徳太子と仏教」が主なテーマで、さらに、その後、日本人の精神的な根底を築いた太子に対する敬愛が、太子信仰(親鸞聖人にも大きく影響する)として流れていることにも触れておられた。これまで法隆寺などでも拝観したことのある仏像もあったが、改めて体系的に示されて見応えのある展示に、ただ堪能した。

 特に、法隆寺の聖霊院に安置されている秘仏本尊である聖徳太子および侍者像は、始めて拝観させていただけて感銘した。威厳ある太子像とは対比的に、子息の山背大兄王などの侍者像は、どれも柔らかくユーモラスな表現で描かれているのが印象的だった。

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  最後に有名な「玉虫厨子」があったが、綿密な細工や、今なお輝いてる玉虫の翅が残っているのも驚き、また各面のモチーフである四「施身聞偈」(修行者と羅刹、とか「いろは歌」)や「捨身飼虎」などもじっくり拝観させていただけた。

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 続いて、別館になる「なら仏像館」に足延ばしたが、みんな、歩く疲れてサッーと見るに留まった。その中でも、特別公開されていた金峯山寺の金剛力士像が、天上まで届くような迫力ある存在感を示していた。

 疲れたけれど素晴らしかったです。

 6月20日まで奈良国立博物館で。7月13日~9月5日の機関は、東京国立博物館で開催予定。

 

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百ケ日法要~『横川法語』~

 2月に葬儀があったN家の百ケ日法要。

 法話は、源信様の『横川法語』を頂く。短い法語だが、そのお心は深く、重い。

 第一段の冒頭。「まず三悪道を離れて人間に生まれること、おおきなるよろこびなり」と始まる。これを、わが身にかけて頂くだけでも、生まれ難い人間に生まれたこを、ほんとうに喜んでいるのか。地獄、餓鬼、畜生の三悪道を離れ、やっと人間と生まれたながらも、結局は、地獄や餓鬼、畜生ような生き方をしてはいないか。
 もちろん人間に生まれても儘ならないことばかりなのだが、それはこの世を厭うたよりであり、そして菩提を?う(別バージョン)しるしである。仏法を聞く縁となる世界なのだがら、まず人間に生まれたことを喜べと言われているのである。

 そして第二段では、人間に生まれて仏法を聞く身となって、深き弥陀の本願に出会ったことを喜べと言われている。

 「人間に生まれたることを喜ぶべし」
 「本願にあふことを喜ぶべし」

 喜び、喜びといっても、ただこの世の幸せや、尊い命を恵まれたことを単純に喜んでいるのではない。その根底にあるのが、弥陀の本願に出会ったことの喜びがある。三悪道では聞くことが出来ず、生れ難い人間に生まれたればこそ、遇い難い本願に出遇わせて頂けるというのである。

 最後の第三段では、
「妄念は凡夫の地体なり」
「妄念のほかに別の心なきなり」
「臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞと…」
「蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへして…」
「妄念のうちより申しいだしたる念仏は…」

と、短い文に5度も「妄念」という文字がある。「妄念妄想」とよく使われるが、妄念とは、「真理・真如に離反した迷いの心」という意味である。それが私の正体であり、仏法を喜んでいても死ぬまで離れることのない私自身なのである。
 しかし、その妄念の凡夫であっても、また念仏を申すのが大儀で邪魔くさいあっても、その口から出る本願念仏こそが、「濁りに染しまぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず」だと結ばれている。

 そのお念仏は、単なる念仏ではないのだ。本願の念仏なのである。

 

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5月の「仏書に親しむ会」~『真宗安心一夕談』~

   5月の「仏書に親しむ会」。前回で、『仏敵』、『善き知識を求めて』が終わり、今回から新たな本に入る。

 『悟痰録』を提案したが、3月の講習会で取り上げた『真宗安心一夕談』を深めたい、という声があがる。濃厚で未消化なまま終わったという。ただみんなで輪読して味わには難しく、かなりの補足が必要だ。この会の趣旨は、講習会のような一方的な講義ではなく、参加者の輪読を中心に進め味わいを深めていくものなので、教義を端的に伝える本書と、今の参加の皆さんの実力を考えると、相応しいとは思えない。その旨も伝えたが、「それでも望む方があるなら」という前向きに賛同の声もあり、特に反対もなかったので、『真宗安心一夕談』を取り上げることにした。

 それなら、ZOOM発信をすることにした。輪読形式は講義ではないので難しい。道場の皆さんの声をどこまで拾えるのか。マスク越しの声が聞き取れないことも了解いただき、同人限定で呼びかけたが、結構な人が集まってくださった。「無料」が効いたのかもしれない。

 丁寧に読まないと、味わいも平凡で、荒くなってしまいがちだ。一方で、短い文章にひっかかりすぎても全体を見失ってしまう。第一章が呼び水で、全体の構成を造っているのでもあるので、先々でハッキリすることもあるからだ。

 参加者に一言ずついただいて、短い本文と、(註一)を読んだところで、時間切れ。「経巻相承・師業口伝」の要点が、どこまで伝わったか?

 次回の法座は、6月2日(水)夜18時50分~21時

 テキストは、『真宗安心一夕談』の第一章(註二)から、第二章へ。

 同人限定で、ZOOM発信あり。出来る範囲での発信になりますが、ご了承ください。

 

 

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『御伝鈔』(8)第七段~まったくわたくしなし~

 念仏どころか信心さえも「如来よりたまわりたる」。これはとんでもない話だが、よくよくお聞きしないと、一歩間違うと安易な信仰に陥ってしまうおそれがある。

 例えば、他力廻向の同一信心であるがゆえに、一味であるといわれる。『正信偈』に「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入一味」とある「帰入一味」が、この段を表している。これは他力廻向の信のすばらしいお徳だが、下手をすると、「みんな救われている」「すべて他力のみ光の中にある」「すべてが平等だ」といったように、「みんな」や「すでに」と都合よくお救いを解釈して、厳しい詮索や求道などは浄土真宗にはないことを喜ぶ信仰にすり替えられていくところである。

 しかし、『御伝鈔』にあたってみるとそんなことは言われてはいない。

「往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」

 だからこそ、法然様の信心も親鸞様の信心も「他力よりたまはらせたまもう」もので、ひとつなのだと。
 信心、信心といっても、それは「往生の信心」。浄土に生まれるタネとなる信心であって、それは、他力信心ひとつで救われていく、その「ことわり」(道理・おいわれ)を「うけたまわる」、聞信するひとつで、「まったくわたくしなし」となるのである。
 この「まったくわたくしなし」の一言が効いている。「わたくしなし」とは、「私情を交えない」「自分の気持ちを交えない」ことだか、ここでは「自力が一切無効の身となった」という意味である。自力無効と捨て果てさせられたのだから、自ずと他力が満入してくるのである。決して、自分の都合で取り込んでいく話ではない。

 堺の妙好人、物種吉兵衛同行の語録に

 御領解文の初めに、「もろもろの雑行雜修自力のこころを振り捨てて」と仰せられてある。
 「自力の心を捨てたら聞く物柄がないといわねばならぬが、それで聞きぞこないがないのや」と言われた。

「わたくしなし」がないとは、「自力の心を捨てたら聞く物柄がない」ところである。まさに娑婆のおわり、臨終なのだと。ここを外して、いくら一味だか、有り難いと、他力だと言っても、まったく詮無いことである。

 法然聖人の三八〇余名の門弟のなかで、その真意をえたものはわずか五、六名だったという言葉は、八百年前のことではないのだ。
 華光同人、三〇〇余名のなかで、さて真実信心のものはどうか? 南無阿弥陀仏

 参照=『正信偈の大意』『帰入一味』増井悟朗講述(華光誌80-1号)

 

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『御伝鈔』(8)第七段~賜りたる信心~

  ところで、この諍論は、唯円房が親鸞聖人からお聞きしたという形で、『歎異抄』後序にも残れさている。

  そこでは、「如来よりたまわりたる信心」なので、法然様と親鸞様の信心はひとつだと述べられる。「如来よりたまわりたる信心」とは、阿弥陀如来より恵まれたご信心、つまりは他力回向の信のことである。同じ表現は『歎異抄』では第六章にもある。ところが、親鸞聖人の著述には同じ表現はない。聖人が「たまわる」という用例の大半は、「仰せ」や「教え」をたまわることである。余談だが『御消息』では、関東の門弟に銭をたまわった御礼に用いておられる。もっとも近い表現としては、「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき…」(『御消息集』三九通)とある。もちろん、他力廻向こそ聖人の信心の根底をなすもので、例えば、第十八願成就文「至心廻向」の読み替えなどからも明らかではある。

 ちなみに法然聖人においては、このような信心一異に類似するの教説や法語は存在していない。

 しかし、『和語燈録』(真聖全四)では、問答を設け、「本願の念仏は、智者が称えても、愚者が称えてもその価値には代わりない」ことを示し、さらに「心を澄ませて称えようと、散り乱れて濁った心で称えようと、その功徳はまったく等しい」と述べられている。これは称える者が加える徳ではなく、本願の名号の持っているお徳なのだから、一声一声が如来よりたまわった念仏であるといえよう。

 確かに「南無阿弥陀仏」の名号を阿弥陀様から賜るというのであるのは、まだ理解できよう。しかし、その名号を信じる心(信心)までも、阿弥陀様から賜るというのであるから、常識では決してはかることのできない不可思議な世界だ。

 では、そのお心はどこにあるのか?

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『御伝鈔』(8)第七段~対論の上人方~

   さて、前章「信行両座」と異なる点は、「信心一異の諍論(じょうろん)」は、「はかりきな諍論」であった点だ。「はかりない」とは、「おもいもよらない」ということで、何かが仕掛けられていたのではなく、話し合い、もしくは議論のなかで「おもいがけず論争」となったというのである。

 この信心一異の諍論の時期はいつ頃だったのだろうか。

 親鸞聖人の法然門下の時代は、建仁元(1201)年~承元元(1207)年(承元の法難)の間で、聖人が善信房と名乗られるのが、元久二(1205)年以降であることから、建永元(1206)年、聖人34歳の頃だと推測されている。

 では対論の人々はどんな方か。『歎異抄』には「正信房」の名はないが、ほかの2名と同じである。

「正信房」=正信房湛空上人(1176~1253・78歳)。徳大寺左大臣実能(さねよし)の孫で、天台宗の学僧から法然聖人に帰依する。常随の弟子として配流地にも同行と伝えられる。法然聖人の中陰(三七日法要)の施主。聖人の遺骨を分骨され、嵯峨の二尊院に御廟(現存)を建立する。その門流を嵯峨門徒と称する。

「勢観房」=勢観房源智上人(1183~1238・56歳)。一ノ谷の合戦で戦死した平師盛の子で、重盛の孫、清盛の曾孫だとも言われる。13歳の時、法然聖人の元に託され、慈円(慈鎮和尚)のもとで出家。聖人上足の弟子、感西上人に学び、その滅後は、法然聖人の寂滅までの十八年間(聖人63歳から80歳。ただし配流地・讃岐には同行できず)常随される。法然聖人の念持仏の阿弥陀如来像を付属。ご往生の二日前に『一枚起請文』を授かる。聖人の二三回忌法要に、廟堂を修復し知恩院大谷寺と号する。他に百万遍知恩寺の開基。その門流を紫野門徒と称する。

「念仏房」=念仏房念阿上人(1157~1251・95歳)。念阿弥陀仏と号す。法然門下に多い○阿弥陀仏は、聖の号。天台宗の僧だったが、30歳の時に大原問答に結縁して門下に入る。嵯峨の釈迦堂を再建し、往生院(現在の祇王寺)を建立。

 そして、建永元(一二〇六)年の出来事だとすると、各上人方の年齢は以下のようだ。

1)正信房湛空上人(学問)31歳
2)勢観房源智上人(持戒)24歳
3)念仏房念阿上人(道心)50歳
4)善信房親鸞聖人、   34歳
5)源空房法然聖人     74歳

 また「信行両座」で信の座の方々と、「体失往生」の證空上人は、
6)法蓮房称弁・信空上人 61歳
7)聖覚法印       40歳
8)熊谷直実 (生誕年不明)歳
9)善恵房證空上人     30歳

 法然聖人の比叡山での弟弟子の信空上人が61歳、念仏房念阿上人が50歳という以外は、20、30代の青年僧であったことが、新興勢力である法然教団の性格を顕している。同時に、湛空上人、源智上人、そして證空上人も、法然様のもっとも近くに使えた聖人のお気に入り方々であり、聖人亡き後、法然教団を引っ張っていかれた方々である。さらにぞれぞれが「学問」や「持戒」「道心」にかけては抜きんでいたお弟子方であるというのである。

 そんな方々でも、いやそんな方々だからこそ、「法然聖人」その方の「聖人」像を見つめられても、それを超えてその背後にある「弥陀の本願」の不思議が響いておられていたのか。決して他人ごとではない。

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『御伝鈔』(8)~第七段・信心一異(1)

 午後から聖典講座のために、早めに神鍋高原を出発する。早めに準備が出来ているので、その点では気持ちは楽だった。

『御伝鈔』上巻の第七段「信心一異の諍論(じょうろん)」とか、「信心諍論」と名付けられた一段だ。先号の「信行両座」に続いて、吉水(法然門下)時代の三大諍論の一つで、浄土真宗の信心は、他力廻向であり、帰入一味であることを現わす段で、同時に、第五章「選択付属」、第六章「信行両座」に続き、多数の門弟の中で、法然聖人の真意を得たものは稀で、親鸞聖人こそが正統な後継者であることが示すことも、覚如様は強調したかったのである。
 
 大意としては、聖人が法然門下の34歳の頃、「法然聖人と私の信心は、少しも変わらず同じだ」と申したところ、他の弟子が、「そんなはずはない。どうしてそう言えるのか」ととがめた。そこで聖人は、「知識や知恵の深浅ではなく、他力信心では、自力が廃れて、共に他力よりたまったものだ」と申し上げた。すると法然聖人も、「信心が違うのは自力の信心の時であって、法然の信心も善信房の信心も、共に如来よりたまわったもので、ただ一つである。もし違うという人がいるのなら、私の参る浄土へは生まれることはできない」と申されたので、皆、口をつぐんでしまったということになる。

 それを便宜上、以下の3分科していただいたが、流れとしてはひとつの出来事である。

一、「上人親鸞のたまはく~ひとしかるべき、と」
  法然門下での、親鸞聖人(善信房)と他の門弟との信心一異の問答

二、「善信もうしていはく~申しはんべりしところに」
  親鸞聖人の信心同一の主張

三、「大師聖人まさしく ~閉じてやみにけり」
  それに対する法然聖人の裁決

 

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神鍋高原

 法事の後は、神鍋高原のリゾートホテルに移動して会食だ。十分に間隔をとって着席したので、交流は難しいのは残念なのは、致し方ない。ご馳走がでる。でも昼間でもアルコールは御法度。禁酒法のようだ。それぞれが故人を偲びつつ終了した。

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 十分、京都に戻れる時間だったが、施主のご配慮でホテルに泊まることになっている。この時期、他の宿泊客はいない。施主のご姉妹とぼくたち夫婦の二組だけなのだ。それでもフロントも、レストランも、温泉や清掃スタッフが働いて、4名の宿泊客よりもスタッフ数の方がはるかに多い。広い温泉も1人に貸し切り。贅沢というより申し訳ない。

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 遅い目の昼のご馳走でお腹が一杯だが、夕食の時間が迫っている。

 腹ごなしを兼ねて、神鍋高原を散策。子供でも、先生でも、こので仏の子供大会が開かれいる。学生時代には、追跡ハイキングのコース作りで2、3度下見に来ている。冬のスキー場から、夏の合宿場、そして、温泉を備えたリゾート地と、あたりの風景は変わったが、自然自体は変わらない。近畿で一番新しい火山だといわれる神鍋山には登らなかったが、山の回りを歩く。ごき水系で一番落差のある八反滝、そして林の中を抜けて俵滝まで歩いたが、人には合わなかった。


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<八反滝>
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<俵滝>
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     夕食も御馳走だ。有り難いことだが正直、苦しい。ご馳走を前に禁酒といのうが、一番の苦しかった。しかもぼくたちだけのサーブしてくださるので、残すのも申し訳なく、夫婦でふうふういいながら、ご馳走を堪能した。「田あれば田があることで苦しむ」の仏説どおりである。

 おかげて、永代経に続き、会の健全な運営(?)には、大いに助かった。

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豊岡市での一周忌法要

   永代経が終わり、すぐ次の法座の準備に入る。日高(豊岡市)での一周忌法要があり、翌朝には京都に戻って聖典講座と続くので、聖典のレジュメ作りに取りかからねばならない。予定変更でタイトな日程になった
 土曜日の早朝、兵庫県豊岡市の日高町に向う。高速道路はガラガラで早く到着した。緊急事態が発令の中で、不要不急の外出自粛が求めている。法事も中止になるのかとも思ったが、お施主は、こんな程度ではひるまれない唯我独尊(?)が持ち味だ。大阪や神戸方面のご親戚は欠席されても、地元の方が中心。故人は、若き日、華光会館に下宿されて、働きながら、会館で珠算や簿記などの商売の基礎を学ばれている。しかも会社を起こすにあたり、悟朗先生がアドバイスをされている。さすがは商業高校を出た、商売の息子である。お父様は、仕事の上でも、仏法でも、遊びでもなんでもこなした方だった。華光の役員として尽力され、法の上でも篤い方でマッチを小道具にしたご示談で知られていた。今日も、故人のごきょうだいが参詣されていた。父親が仏法が篤くても子供が相続するとは限らない。それでも、若き日からご法縁にはあっておられて、仏法の尊さは分かっておられる。人身は受け難く、仏法は聞き難いそのご法話。

 でもご法に篤い親の子であっても、この先の一歩を踏み出されるの方は、爪の先の砂粒である。

 

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永代経の余韻~唯、漂うだけ~

 永代経の余韻を味わっている。ご講師の法話を拝聴だけでなく、同行の感話も尊かった。これは華光の特色であるが、何も僧侶だけが伝導する特権を握っているのではない。むしろ、同行の声にこそ生きた念仏の証明(証拠)であり、在家止持の浄土真宗の特色がある。それが、布教師などの専門職が現われることで、真宗の活力が失われていたのではないか。今の真宗は、ハンドルはあっても、エンジンがない、もしかするとアクセルのない、ブレーキーだげの車かもしれない。命の通わない正しい(と称される)教義の羅列よりも、その方に息づいてる念仏の声を、ぼくは聞きたいのだ。

 高山のOさんの感話は、「唯除」のこころについて。「必ず救うという大悲のお心です」という紋切り型の悠長な話ではなく、「世界中の人が救われていっても、私一人は除かれていた」という本願のお心を、わが身に即してほんとうにスッキリとお話くださった。

 『仏敵』の中にある、伊藤先生の信をチクチクと崩しにかかる「坊さん」の質問である。「今、君は、生死の大海に漂ってる。向うから大木が流れてきたら、あなたはすがるかい?」と。「はい、すがります」と答えると、口々に「それではアカン(ダメ)」だと言われる。しかし、伊藤先生にはその真意分からない。実は、ぼくもここが引っかかったのだ。それに対するOさんの味わいは一言だった。

 「すがるもすがらないもない。「逆謗の死骸」はただ漂っているだけだ」と。

 これまでも、「すがってはならない」とか、「すがったまんま落ちていく」とか、「そこをお助けてくださるが阿弥陀様」とか、この意味がどうかこうかという、さざまな声を聞いてきたが、そんなものは分からない、ただ生死の苦海を漂い続けているのか、死骸の私なのだと。それが「唯除」のこころと、スッキリしたお話を聞かせていただけた。南無阿弥陀仏

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永代経法要終わる~法の威力~

 夜の法座の後、掃除や消毒が終わると、粛々と、皆さんが会館を後にされていく。

 なんとも妙な感覚だ。
 
 皆さんも名残惜しそうだが、仕方がない。外飲みをするにも、お店は夜8時で締まり、夕食時でもアルコール提供は一切ない。自宅やホテルにすごすごと帰っていくしかないのである。

 華光の懇親会は、単なる交流や親睦のためだけでなはく、限られた時間内で発言できなかった人や「こと」を、個人的に聞かせていただいける、また触れ合うことができる、大切なご法の時間であるのだ。もちろん、法話や座談会そうあらねばならないのだが、なかなか自分自身の個人的なことを語ることは、今の分級座談会の場では限界がある。伊藤先生や悟朗先生が、アルコールが好きだったことが幸いしているのだが、凡夫として先生方とも触れ合える貴重な時間であることには変わりはない。

 残念ながら昨年の3月の講習会を最後に、華光会館での懇親会は開いていない。今の状況が続けば今年一杯、それどころか来年もまだまだ難しいだろうが、今、法座が無事に開かれることが最優先で、会食や懇親会は避けていくかしない。

 そして、コロナ禍で始まった「前期・後期」の2部制も、不思議な感覚である。2日間の法座が終わって、家族で夕食の時、「はご苦労さまでした。また明日からですね」という話になった。終わったのは終わったのだが、明日の午後から次が始まるのである。

 もちろん4日間の法座だとは思っていても、ご講師もメンバーも新たになるので、また新たな法座が始まるのだ。顔ぶれが変わると雰囲気も変わってくる。今回ならば、前期の定員一杯で、活気もあったように思う。後期は少なめで、しかも座談会もずいぶん大人しい目であったようだ。これは、Zoomでの参加が増えても、会場の雰囲気には影響しないのである。後期のご講師には申し訳なかったが、これもまたご縁である。

 ただ4日間、法にじっくりと触れさせていただけることは、たいへん勿体ないことだ。法のすばらしさは、こちらがそれを取り込もうとしても茫洋としてありえない。逆に、法の威力で、こちら側の厚着がどんどんと脱がされていくのだ。気がつくと「なんで、こんな厚着をしてたのかなー」と思うほど剥がされて、丸裸にさせられる。厚着をしている事すらきづいていないのだ。すると、面白いことに法が自然と躍動してくるのだ。小さなはからいで法の邪魔をしてきたたが分かるのだ。

 さすがに法要も4度、法話も2度、そして信仰体験発表の司会もあって、たいへんではある。懇親会はなくても、夫婦での飲み会で補い(別に補わなくていいけど)た。その意味では、からだは疲れているのだが、心は軽やかになってくる。この感覚は、身を置いて、委ねてみなければて得られないものだ。

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永代経法要・前期~法座は浄土の出店~

 前期の2日間の永代経が終わった。緊急事態が発令されたが、キャンセルはほとんどなく、前期の最終日は定員一杯の40名が参加された。

 体調不良で初日を欠席されたK先生も、2日目から元気にご出講くださり、朝、昼座2座のご法話をくださった。どんどん活性化されていく姿を目の当たりに、法話も核心に迫ってくださった。

 「疫癘の御文章」(4-9)を軸に、朝座は、定業についてのご法話。衆生側、私の上で「無始以来つくりとつくる悪業煩悩」と、その業報としての実相について。業とは、本来、宿命通を悟った如来様にしかわからないものであるが、「卯の毛、羊の毛のさきにいるちりばかりも造る罪の、宿業にあらずといことなしとしるべし」のところを、時にユーモラスに、そして厳しくお聞かせに預かった。

 昼座は、如来様の大願業力について。つまり、如来様の上での三業で修めてくださった行は、一念一刹那も「清浄ならざることなし、真心ならざることなし」であって、そしてその至心(真実心・清浄心)で、南無阿弥陀仏の名号成就くださり、「本願の名号は、正定の業のなり」と、私に廻向くだされるおいわれについてお聞かせに預かった。

 特に、この「疫癘の御文章」は、別名「勅命の章」といって、阿弥陀様直々の説法がしめされているというのである。

 「このゆえは、阿弥陀如来の仰せられけるようは、「末代の凡夫(罪業のわれらたらんもの)、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずくふべし」と仰せられたり。

 というのである。『御一代記聞書」にあるように、普通、阿弥陀様のことを教えてくださったのは、教主である釈尊であり、また七高僧や親鸞様、そして今、お取次ぎくださる善知識様だと思うのだが、実はそうではなく、阿弥陀様が直々に教えてくたさっているのである。これは決して蓮如上人の言葉ではなく、弥陀の直説法なのだ。泥凡夫の姿には、風呂の焚き物にもならないほどの念の値打ちもなくても、その口から出るものがあまりにも尊いという、物種吉兵衛同行のエピソードを紹介くださったのが、とても有り難かった。

 法座とは「お浄土の出店」だというのだ。その主はもろちん阿弥陀如来様である。
 この腐っていく頭で道理理屈で聴く話でも、聴こえる話でもない。それを、体調不良で「出る」とか「やめるとか」を繰り返される、「わが身を惜しむ」凡夫丸出しを体現されているK先生の、同じ口を通して、阿弥陀様の直説法が聴こえてきたのである。南無阿弥陀仏

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永代経法要を開催

 GMを前に、京都にも緊急事態宣言が発令された。大阪・兵庫の感染状況も深刻になってきている。感染状況によっては延期も含めて運営委員の皆さんと相談。一層の感染対策を徹底し、予定どおり永代経法座を開催を決めた。密を避けるために前期・後期の二部制、ご講師も、前・後期それぞれ1名で出勤も最低人数で臨むことにした。

 永代経の準備を進めている。通常の行事ような分級座談や進行の相談もあるが、一番の仕事は、法名軸の記載である。これは緊張するし、苦手だ。加えて記念品の購入もあるが、ご講師の会食やホテルの手配は、コロナ禍の法座で増えた仕事である。緊急事態発令で、ホテルの取り直しもする。半額近く価格になっていた。会館の回りもホテルラッシュだが、こんな事態になるとは誰も予想していなかった。まさに無常である。

 夕方、法名軸の記載を中休みして、記念品の念珠を購入に出る。記載もあと一頑張りというところで、ご講師の先生より緊急の電話。体調不良で、初日を欠席となった。余裕があるつもりが、急に慌ただしくなる。法話や分級の段取りを変更、ホテルや食事のキャンセル、何よりも法話担当が、前期のご満座(2日目の昼座)から初日のトップになり、法話の教案をすぐに準備する。法話や体験談を聞いてまとめる予定でいたのからだ。

 それにしてもコロナ禍の中での開催は、いろいろな意味で緊張感が伴っている。この形式で1年間やってきて、少しは慣れてきたが、当日、何事もなくても、終了後、1週間はたたないと安心はできない。今回も85歳以上の高齢者の方の複数あるのだ。それでも、聴聞は不要不急の暇な時に慰めのためではない。その態度しめす意味でも、開催を決めたのであるから、

 

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