『御伝鈔』(7)~第六段「信行両座」(2)~
さて、この段には不可解な点が多い。
まず、「信不退・行不退」のエピソードは、『御伝鈔』のみに唯一残された伝承で、浄土宗側(詳細な法然聖人の伝記にも)まったく記載されていない点である。
内容的にみても、当時の法然門下で「信・行」の選択を迫ることがあったとは考えにくい。また一方に偏執することは、聖人の真意であろうか。
さらに信の座に座った人々の顔ぶれにも、恣意的な点がある。などである。
そこで、覚如上人に厳しい中沢見明氏は、「史実ではない」と否定され、同調されるむきもある。しかし今日では、覚如上人の完全な創作というよりも、何らかの伝承、類似の出来事があったのではないかと考えられている。残念ながら確証を得る史料はない。赤松俊秀博士は、『親鸞』の中で「一念・多念の論争を反映していると解してよい」と指摘されている。親鸞聖人の入門のころから、一念義、多念義の争いがおこり、ますます激しくなっていることはよく知らされており、その文脈の中で、「親鸞は一念義」と分類されることが多いのだ。しかし、親鸞聖人の『一念多念文意』では、
「一念をひがごととおもふまじき事」(677)
「多念をひがごととおもふまじき事」(686)
と、以下、一念・多念に偏執することを誡める文を著しておられるのである。むしろ、一念に偏執し相続の念仏を否定したり、逆に、多念に固執して、一念を否定するような極論を誡めておられるのが、聖人の立場である。
同時に、「信」と「行」に関しても、信のみで行を完全に否定されることはありえない。親鸞聖人の『御消息』の中で
「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念を離されたる信の一念もなし」(749)
と仰るように、行と信は不離なのである。
「本願を信じ(信)念仏を申さば(行)仏になる(証)」
(『歎異抄』十二章839)
「真実の信心には必ず名号を具す」
(『信巻』245・この名号は称名)
と述べられているように、他力信心(信)をたまわれば「南無阿弥陀仏」と称名念仏(行)を申さずにはおれないのである。
つまり、本願成就文には、
「聞其名号・信心歓喜・乃至一念・至心回向・願生彼国・
即得往生・住不退転」
とあることからも、ここでいわれる「信の座(信不退)、行の座(行不退)」とは、
信不退=阿弥陀仏のご本願を信じる一念の時に、浄土往生か決定する、という立場。
行不退=お念仏の行を励みつづけ、その功徳をによって浄土往生が決定する、という立場。
という意味で解するのが妥当ではないだろうか。
(つづく)
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