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碧南市での東海支部法座

   今月の東海支部法座は初会場、家庭法座として会所を提供してくださる。愛知県碧南市。一度だけ聞法旅行で、清澤満之師の西方寺をお訪ねたことがあるが、これまでご縁がなかった地域だ。東海道線のトラブルで、各停でJR刈谷駅まで行き、名鉄線の碧南行きに乗り換えた。耳慣れない街の名前が続く。どの街にも変わらぬ人の営みがあり、よく似た風景が続くのだが、なぜか新鮮な気分になる。碧南市、高浜市、半田市、東海市、刈谷市などの近隣の街からの参詣者に、三重や岐阜からもお参りされていた方もあった。車での参詣者向けに「華光会」の大きな文字が掲げられていたのには、感銘を受けた。

 会所のご家族や親戚、縁者がお参りくださるのが、家庭法座のよいところだ。半日の法座でも、家人は準備のために落ち着かなかっただろう。ましてやこのコロナ禍で、消毒や換気などの仕事も増えている。効率や便利さを考えると駅周辺の公共施設の方が、便利だ。マイクに、机やイス、そしてホワイトポードと設備も整っている。第一、お世話も外なら楽だ。(もっとも今回は、広々とし前庭に、裏庭、坪庭まであるお宅で、法座会場としても申し分ない広さがあり、黒板や演壇の用意まであった。何よりも一段高い専用の仏間に仏壇も立派だった)。
 
 しかし、そんな利便性だけでは味わえないものが、家庭法座にはある。その家それぞれの仏壇を中心に、手を合わす方が住んでおられるのである。その会場を提供くださる方の思い入れの分だけ、法座は輝くといってもいい。

 ただ法座が開くには、さまざまな条件が重ならねばならない。会場を提供し、法を説く方が来られ、その法を聴くものが集って、初めて法座が開かれるのだ。特に家庭法座に皆さんが集まられるには、そこに徳がなければ人は集まってこられない。決して仁徳をいうのではない。そこには必ずお釈迦様のお命が捨ててあったのだということを教えていただいた。娑婆往来八千遍、芥子粒ほどの隙間もなくこの娑婆には釈尊のお命を捨てられた。その場所に法の華が咲き、念仏の声が響くのである。遠く宿縁の不思議を慶べである。南無阿弥陀仏

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