『御伝鈔』(7)~信不退の面々(3)~
さらに信不退に座った人々の問題である。親鸞、法然両聖人以外では、以下の3名である。
「法印大和尚位聖覚」
聖覚法印(1167~1235・69歳)。法印は僧侶の官位で「僧都」のこと。天台宗の僧。信西と呼ばれた藤原道憲の孫で、澄憲の子。比叡山東塔の竹林坊に住するが、京都の安居院(あぐい・堀川鞍馬口)に里坊があり、父が開いた安居院流の唱導(説教)師として、安居院法印とも呼ばれる。後に法然聖人の帰依する。法然聖人をして「聖覚法印、わが心を知れり」(法然上人行状絵図)とある。しかし何故か「七箇条制誡」にその名はなく、近年は、嘉禄の法難を先導するなど不可解な面も指摘されるが、いまだ研究中である。
親鸞聖人より6歳年長で、聖人は法兄として尊敬され、著述の『唯信鈔』を、関東の門弟に盛んに拝読を勧められる同時に、自らも『唯信鈔文意』を著しておられる。
「釈信空上人法蓮」
法蓮房称弁・信空上人(1146~1228・83歳)。法然門下の最長老。比叡山時代からの法然聖人の学友であり、最初に円頓戒を授かり、浄土宗を開かれた後も最初の門弟。「七箇条制誡」でも法然聖人に次に署名される。白河門徒の祖であるが、没後すぐに流れは途絶えている。
「沙弥法力」
法力房蓮生・俗名は熊谷次郎直実(?~1208年)。源頼朝に使えた関東(熊谷)の御家人で、源平合戦での功績は有名。『平家物語』では一の谷の合戦で、平敦盛の首をとり、そのことを縁として仏門に入る。「熊谷の逆さ馬」は有名な逸話だ。また美作誕生院の開基でもある。
すべて高名な門弟であるが、その後の流れが途絶えていたり、一匹狼の人達が名を連ねている。一方で、他の方の記載はまったくない。
つまり、法然門下のあまたの門弟の中でも、法然聖人の真意をまことに得た人は数は少なく、親鸞聖人こそが真の後継者だということを強調する結果となる人々が選ばれていると見ていいのだ。
その背景には、覚如上人当時の対外的な関係(対浄土真宗異流、対浄土宗各派)の中で、本願寺の親鸞聖人の流れ(三代伝授の血脈(法然-親鸞-如信))こそが、唯一の正統であることを証明しようという、勢力争いの意図もあるだろう。
がしかし、単なる政治的背景だけでなく、真の法脈を護るという深い意味が込められていることを、今回の講座では充分に味わえたことがて大きな収穫であった。真実が伝えるということは、難中之難なのである。味わいは、また述べていきたい。南無阿弥陀仏
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