高山法座で味わったこと
法供養に引き続き日曜日は、高山支部法座である。「菩薩行と四弘誓願」「極難信の法」の二座をテーマにした。
新型コロナのために定員15名に限定。久しぶりに富山からの同人にお会いする。北陸からの同人にお会いするのは、1年以上ぶりである。これまでこの地区の同人方は、他県をまたぐ移動を控えておられて、誰一人としてお会いできていなかった。まだまだ通常の法座にほど遠い。
12月に初めてご参加くださった老・若が、今回もお参りくださった。お二人の聴聞の姿勢が対象的だ。若い方は東京から故郷での聞法なのだが、近くのご実家には戻れず(コロナで帰ってくるなと)ホテルを取られたという。急いて求めておられる姿勢は伝わった来る。逆に、高齢の方が、あまりにも人事のようにノンビリしていおられて、こちらの気が急く。大無常は迫ってきているのだ。ただ、どんなに焦り、都合のよい結果ばかり求めてもダメだ。感情的に聞くと、心も動き、涙になって、信心に近づいたように錯覚するが、単にその場(もしくは自分)に酔っているだけのことも多い。
信心とは、本願を知的に理解するのでも、また感情的に盛り上がるだけでもない。真の聞法は、知も情も超えて、まったく予定外のところから突き刺さるものではないか。予定調和の中で聞いていても、結局、自分のワクからは出ることはできない。「驚きを立てて聞け」といれるが、ほんとにの自分に出会えば、震えるほどの驚きが立ってくるのだ。
一見、遠回りのようで、具体的に、法座ではない日常生活においても、自分の罪悪、無常を聞いていくことがポイントである。別に、信・未信にかかわらない「罪悪観、無常観の常在意識」である。そうでないと、座談会のときに口ごもるしかないのだ。高山の方は、すぐに「口下手」と逃げて行かれる。確かにそれもあろう。ほとんどは、口てはなく、耳の問題だ。法話を漫然としか聞いておられないのである。そして、法座以外の日常の生活がどうであるかも問われて来る。常日頃、仏法とご縁を結ばず、年に数回のルーティンのような聞法だけを重ねても、お味わいが出て来ないのは、当たり前ではないか。別に、勤行しろとか、法話聴聞しろというのではない。やはり「罪悪観、無常観の常在意識」の問題である。これは方法論や獲信のための道具ではない。すぐにコツとか、やり方を学んで、効率よく聞法していきたいのだが、残念ながら、当流にはそのような段階的習得法はないのだ。むしろ、自己を聞くことは、それを剥がされていくことにほかならない。
だからこそ、余計に仏とも法ともないときの、日常生活の自分の姿を聞かせていただくのである。そこにこそ仏様の願いもかかっているのだ。法座のときに優等生の姿を持続させるのでも、そのこころを深めて聞くのでもないのだ。常日頃の、仏とも法ともないお粗末な自分を、具体的な味わいを通してて、座談会や同行の前に口にだしていく。そしてそのうぬぼれを糺していただくのである。仏法は具体的に聞いていくのである。南無阿弥陀仏
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