« しんらん交流館の公開講座~ブラジルの日本型交番の話~ | トップページ | 日曜礼拝と広島法座のコンビネーション »

お彼岸の大阪支部法座

 春のお彼岸の中日。春も秋も、お彼岸は大阪支部法座が恒例だ。昨年の春は、コロナの拡大の中でも同人宅での家庭法座だったが、今回はコロナ対策で華光会館が会場となる。おかげて、大阪支部だけでなく、京都、東海支部の参加者に加え、初参加の方も3名と、なかなかの盛況で、座談会は分級座談会になった。コロナの拡大の影響で、この1年間は、新しい参加者がとても少なかったが、今月に入って、高山、日高、大阪、広島と、初顔の方がボチボチと増え出している。不自由ではあるが、感染対策を取りながらの法座にも少しは慣れてきたようだ。

 浄土和讃の中で「大経讃」と、「正信偈」から、難信の法をテーマにした法話。単にお聖教の解説ではなく、日高支部でのご示談などを通して感じたことがテーマになった。Zoom参加者からの問いで、また刺激を受けた。

 「邪見・驕慢・悪衆生」は、決して頭で理解するのではなく、身で聞かせていただくことだ。その身の自己と出会い懺悔させられるといっていい。これは単なるこの世での、人間関係で起こる「驕慢」(おごり・たかぶる)を指すのではない。あくまでも本願に向ってこそ、初めて問題になってくるの壁だ。「弥陀仏の本願念仏」を信楽受持することの難しさは、阿弥陀如来に対する、うぬぼれ、おごりからおこる。ここで煩悩としての驕慢を指すのではなく、本願に対する自力の計らいの心そのものである。ある意味、ご聴聞をしないかぎり、決して問題になってこない心といってもいい。邪見、驕慢であるからこそ、絶対に本願に頭を下げることはない。その自力の壁、自分の心でありながら、自分ではどうしよもない、その心に泣いたことなければ、説明や理屈を聞いて、「分かる、分からない」という話ではないのだ。すぐに格好をつけたがるのが私の自性だが、いい格好せずに、愚者となってブチあっていくしかない。決して聞くこと、つまり頭を下げることが絶対に嫌な自分を聞かせてもらうのだが、つまら」ないブライドで、大事をし損じ、うまく理屈を頭で理解して通っていこうとする者が、なんと多いことか。邪見・驕慢の塊でしかないのだー。南無阿弥陀仏
 

 

|

« しんらん交流館の公開講座~ブラジルの日本型交番の話~ | トップページ | 日曜礼拝と広島法座のコンビネーション »

法座と聞法」カテゴリの記事