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「肚(はら)を造る~『真宗安心一夕談』

 今年の講習会は、伊藤康善先生の『真宗安心一夕談』を頂くことにした。
タイトルは、「肚(はら)を造る~『真宗安心一夕談』に学ぶ~」とした。肚(腹)を造るとは、どういうことか。ぼくが仏法を聞かせてもらった直後、増井先生から、「伊藤康善先生の著述を読んで、腹を造れ」というアドバイスをもらった。単に、理解するとか、分かるといった頭の問題ではない。「後生腹」という華光用語があるが、この「腹」という身体表現にも意味がある。「伊藤康善先生の著述を読んで…」という指導は、『仏敵』や『善き知識を求めて』はもちろん、『安心調べ』や『真宗安心一夕談』や『一願建立と五願開示』などの安心の核心に触れられた小冊子が含まれている。そこには、伊藤先生から増井先生へと受け継がれた華光の安心上の背骨があり、坐りがあるのだ。

 第1回(昭和49年)講習会のテーマは「獲信の構造」だったが、この「真宗安心一夕談」をテキストにした講話だった。まだ小学生だったので、講習会には参加していないが、その後、「かなり後あって、「伝道研究会」で伊藤先生をテキストにして学ばせて頂いたことは、非常に大きかった。

 『真宗安心一夕談』は、『仏敵』『善き知識を求めて』の付録の16頁の小冊子。その前身は『真宗安心一隻眼』(『善き知識を求めて』の付録)のいわば改訂版か。
 何故、『仏敵』の後に加えられたのかを伊藤先生は記しておられる。

「体験の信仰を説く者は、往々にして教義を毛嫌いする。それは教義を調べて行くと体験信仰の立場が怪しくなるからである。同様に教義を研究する者は、体験信仰を軽視する。それは教義が活きて働かないからである。真宗教義は安心の骨目、体験の信仰はこの骨に肉を盛り地を通わせるものである。教義だけでは骸骨となり、体験だけでは骨なし児になる」(『真宗安心一隻眼』)。

 また、『善き知識を求めて』の前書きには、(付録の)「『真宗安心一夕談』は一寸難しいが、私を始め華光同人の方々が単なる「有難屋」でないことを知ってもらうためにも必要である。我々の信心には尊い伝統がある。」とも記しておられる。他にも、関連づけられる記載があるのだ。
        
 ところで伊藤康善先生の著書にみると、見事に「三量批判」が揃っていることに気づいた。

 聖教量-聖教-『真宗安心一夕談』や『一願建立と五願開示』。
 現 量-自身の回心体験-『仏敵』や『善き知識を求めて』など。
 比 量-朋同行との讃嘆-『我等の求道時代』『アメリカ同行巡礼記』『死を凝視して』など。 

 最後の比量の問題は、第六章にあたる「同行学」の章にとつながっていくのである。今回の講習会でも、以上の三者が有機的なつながり合っているのが華光の法座であり、また各々安心なのであることを、改めて感じさせていただいたのである。

 あまりにも盛り沢山すぎて内容には触れられないが、不参加の方は、ぜひ講話CDを聞いて頂きたい。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」

「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。」

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