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華光誌輪読法座~「そんな奴を」

 「正信偈の大意」(8)は、依経段の釈尊のご教化に入って、「信心の五徳」の内、「帰入一味」の後半を輪読をする。ただ読むだけでなく、各自がその味わいを語り合う。ただ教義的な話題になると味わいが出づらくなる。しかし、単なる知的な学習ではないのが、わが身の心境に照らし合わせながら味わっておられるが尊い。

 ただ読みが疎かになって、自分の心境、それも出来不出来だけが語られていきがちになることにも注意が必要だ。おごり・かたぶる驕慢も、また自己を卑下し貶める卑下慢も、「慢」ということではまったく同じなのだ。世の中では謙虚は美徳だが、こと法の上においては世間的な謙虚は通用しない。むしろ、阿弥陀様のお働きやご法を謗ることになっている。

 「分からん、ダメだ」言い続けられる方がいる。自分でも分かっておられるが、ちょっとした傷が許せないようだ。たぶん、不安の現れなのだろうか。でも、ただ自分の出来不出来だけを語るだけでは、ご法にはならない。法に照らされているのではなく、自己が基準になっているからだ。せっかくの輪読だ。本文を繰り返し読んでいただくことにした。

「「名号不思議の海水は  逆謗の死骸もとどまらず
  衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」

とございます。有り難いですね。

 逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」

 同じ箇所をまた読んでいただく。

「逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」

 もう一度、同じ箇所を読んでいただく。

「逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」

 何度も何度も読んでいたただく。

 そんなお前を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださる。だから何にも障りにならない。分かる、分からんも障りにならん。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 

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