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日曜礼拝と広島法座のコンビネーション

 久々のリアルの広島支部法座だったが、新幹線が車両点検のために遅れた。念のため 京都の日曜礼拝法話をZoom拝聴してもらえるよう手配。幸い、遅刻は15分程度だったが、華光会館の日曜礼拝を一緒に聞かせてもらうことにした。

 1年間、京都からZoom発信していきたのが、広島で華光会館の法座に参加することが、不思議だった。こんな感じに映っているのかと。

 R師のご法話。7ケ月の赤ちゃんを前抱きしてのご法話だ。でも、出産や子育てのことではない。子供のころにイメージしていた獲信者、褒められるために、有り難いものや分かったことを身につけていくことだったが、聞法するなかで、それらはどんどんとはぎ取られて、落ちていく身を聞かせていただいたという内容たったと思う。

「と思う」といったのは、マイクに離れた場所からの法話で、こちらはスピーカーなしで大勢で拝聴していたこともあって、半分は(特に後半)は、ほぼ聞き取れなかった。その分、聞き取ろうと集中して坐らせてもらえのた。なによりも、赤ちゃんを抱きながらのお母さんのご法話が聞けたのだが、その姿に出会えただけでも有り難かったのだ。

 おかげで、変則的な進行になった広島支部法座も、内容は充実していた。初参加の方があり、まずは自己紹介。お子さんを亡くされたお母さんの涙、逆にお孫さんが生まれた方の喜びの声、コロナ禍で1年以上ぶりに出会う方、たった5ケ月の間でも、皆さんの身の回りに生老病死の現実が迫っていたのである。そのままの流れで、日礼法話の拝聴し、すぐに法話の分かち合い。初めてリアルにお会いする方が、心を開いて具体的な悩みを話してくださったのは、有り難かった。冒頭の皆さんの開いた態度が影響していたのだろう。「関わり」という部分では、初めての方に寄り添いながら聞けていたのではないか。ご縁が続きそうである。最後までこのまま進んでもよかったが、休憩を挟んで、ご法話。日高支部で味わったことやできことに、心が動かされ、強く刺激を受けていたのかが分かった。『われらの求道時代』から、日高(当時は江原)の二人の老婆の体験談「龍華の御代は遠ければ」を読んでいく。初めて聞かれて、どこまで伝わったかは不明だが、「日高の同人のお念仏は湿っぽくない、『勇みの念仏』だ」という伊藤先生の言葉が有り難い。

 最近は、理屈の念仏や取り敢えず念仏、ごちゃごちゃ念仏が多い中での納得の一言。

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