桜(二)
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画面越しではなく、リアルに子供のお誕生日をお祝いできたのは6年ぶりになる。
自分の時とダブらせるが、春には大学の四回生になるころだ。覚えている記憶もチラホラあるが、ほとんど覚えていない。それよりも、その頃の父と同じ年代になったことが感慨深い。そう考えるとずいぶんまだまだ未熟だなーと思えた。
本人は、ケーキ作りが趣味なので、誕生日ケーキを自分で造ってくれた。逆に、みんながお相伴に預かる。
ただロウソクを立てられなかったので、夕御飯の時に、から揚げの上にロウソク立て、もう一度お祝い。
翌日は、入学祝いも兼ねて、木屋町沿いのお店で外食した。ここでは、ロウソクではなく花火で、その火を消した。
早くも満開を過ぎた桜たったが、まだ十分見頃。夜桜がきれいだった。
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東京支部法座(zoom配信)に合せて、華光会館で法話会を開催いたします。6月以降は東京法座を再開予定ですので、華光会館での法話会は最終です。
4月4日(日)朝座=10時(勤行)~12時30分
昼座=13時30分~16時30分終了
テーマ:『讃仏偈』に聞く、法蔵菩薩のご決意~
もしあれば、『浄土三部経』(現代語訳)をご持参ください。
定員20名で締切ますが、あと3名になりました。至急、華光会館まで!
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今年の講習会は、伊藤康善先生の『真宗安心一夕談』を頂くことにした。
タイトルは、「肚(はら)を造る~『真宗安心一夕談』に学ぶ~」とした。肚(腹)を造るとは、どういうことか。ぼくが仏法を聞かせてもらった直後、増井先生から、「伊藤康善先生の著述を読んで、腹を造れ」というアドバイスをもらった。単に、理解するとか、分かるといった頭の問題ではない。「後生腹」という華光用語があるが、この「腹」という身体表現にも意味がある。「伊藤康善先生の著述を読んで…」という指導は、『仏敵』や『善き知識を求めて』はもちろん、『安心調べ』や『真宗安心一夕談』や『一願建立と五願開示』などの安心の核心に触れられた小冊子が含まれている。そこには、伊藤先生から増井先生へと受け継がれた華光の安心上の背骨があり、坐りがあるのだ。
第1回(昭和49年)講習会のテーマは「獲信の構造」だったが、この「真宗安心一夕談」をテキストにした講話だった。まだ小学生だったので、講習会には参加していないが、その後、「かなり後あって、「伝道研究会」で伊藤先生をテキストにして学ばせて頂いたことは、非常に大きかった。
『真宗安心一夕談』は、『仏敵』『善き知識を求めて』の付録の16頁の小冊子。その前身は『真宗安心一隻眼』(『善き知識を求めて』の付録)のいわば改訂版か。
何故、『仏敵』の後に加えられたのかを伊藤先生は記しておられる。
「体験の信仰を説く者は、往々にして教義を毛嫌いする。それは教義を調べて行くと体験信仰の立場が怪しくなるからである。同様に教義を研究する者は、体験信仰を軽視する。それは教義が活きて働かないからである。真宗教義は安心の骨目、体験の信仰はこの骨に肉を盛り地を通わせるものである。教義だけでは骸骨となり、体験だけでは骨なし児になる」(『真宗安心一隻眼』)。
また、『善き知識を求めて』の前書きには、(付録の)「『真宗安心一夕談』は一寸難しいが、私を始め華光同人の方々が単なる「有難屋」でないことを知ってもらうためにも必要である。我々の信心には尊い伝統がある。」とも記しておられる。他にも、関連づけられる記載があるのだ。
ところで伊藤康善先生の著書にみると、見事に「三量批判」が揃っていることに気づいた。
聖教量-聖教-『真宗安心一夕談』や『一願建立と五願開示』。
現 量-自身の回心体験-『仏敵』や『善き知識を求めて』など。
比 量-朋同行との讃嘆-『我等の求道時代』『アメリカ同行巡礼記』『死を凝視して』など。
最後の比量の問題は、第六章にあたる「同行学」の章にとつながっていくのである。今回の講習会でも、以上の三者が有機的なつながり合っているのが華光の法座であり、また各々安心なのであることを、改めて感じさせていただいたのである。
あまりにも盛り沢山すぎて内容には触れられないが、不参加の方は、ぜひ講話CDを聞いて頂きたい。
「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」
「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。」
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2月のお葬式から満中陰(四十九日)の法要を迎えた。
仏教での中陰の意味、何故、七日、七日毎にお勤めし、四十九日や百ケ日を勤めるのか。年忌は何のためにあるのか。さらに、一般仏教の立場から浄土真宗の立場でそれをお話さていただいた。
「極悪、極善に中有なし」。極悪の者は、頭下足上で真っ逆様に落ちて行き、極善の者は、即浄土往生するのである。つまり浄土真宗では、死後の追善は語らない。故人の法要を縁として、縁ある者が聴聞させていただく場なのだ。もちろん、亡くなった方のご縁、関係でこの聞法の場が持たれている。矢印の向きが亡くなった方から、この場に坐る私自身に向きが変わってこそ、ほんとうの聞法になるのである。どこまでも自分の後生の問題として聞かせていただくのである。
法要の後は、施主のご夫妻に、連れ合いも交えて4名での会食。プライベートのような感じがしたが、一層、近づけたという意味では、これはこれで楽しかった。
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「正信偈の大意」(8)は、依経段の釈尊のご教化に入って、「信心の五徳」の内、「帰入一味」の後半を輪読をする。ただ読むだけでなく、各自がその味わいを語り合う。ただ教義的な話題になると味わいが出づらくなる。しかし、単なる知的な学習ではないのが、わが身の心境に照らし合わせながら味わっておられるが尊い。
ただ読みが疎かになって、自分の心境、それも出来不出来だけが語られていきがちになることにも注意が必要だ。おごり・かたぶる驕慢も、また自己を卑下し貶める卑下慢も、「慢」ということではまったく同じなのだ。世の中では謙虚は美徳だが、こと法の上においては世間的な謙虚は通用しない。むしろ、阿弥陀様のお働きやご法を謗ることになっている。
「分からん、ダメだ」言い続けられる方がいる。自分でも分かっておられるが、ちょっとした傷が許せないようだ。たぶん、不安の現れなのだろうか。でも、ただ自分の出来不出来だけを語るだけでは、ご法にはならない。法に照らされているのではなく、自己が基準になっているからだ。せっかくの輪読だ。本文を繰り返し読んでいただくことにした。
「「名号不思議の海水は 逆謗の死骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」とございます。有り難いですね。
逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」
同じ箇所をまた読んでいただく。
「逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」
もう一度、同じ箇所を読んでいただく。
「逆謗の死骸-五逆や謗法罪の者は、仏法の上では死骸だと。死骸は物言うことも、聞くこともできん。蹴られ、叩かれようが、燃やそれようが、ウーともスーとも言わないのが死骸であります。「堕ちる」と聞いても恐ろしくない。「参らせるぞ」と聞いても、有り難くもない。こたえん奴です。そんな奴を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださるわけです。だから何にも障りにならないのです。分かる、分からんも障りにならん。よく聞いたというのも手柄にならん。多額の布施も、また逃げ回って聞かんかったというのも、全部問題外なのです。」
何度も何度も読んでいたただく。
そんなお前を、南無阿弥陀仏の不思議が、功徳の大海に押し流していってくださり、一つ味にしこんでくださる。だから何にも障りにならない。分かる、分からんも障りにならん。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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久々のリアルの広島支部法座だったが、新幹線が車両点検のために遅れた。念のため 京都の日曜礼拝法話をZoom拝聴してもらえるよう手配。幸い、遅刻は15分程度だったが、華光会館の日曜礼拝を一緒に聞かせてもらうことにした。
1年間、京都からZoom発信していきたのが、広島で華光会館の法座に参加することが、不思議だった。こんな感じに映っているのかと。
R師のご法話。7ケ月の赤ちゃんを前抱きしてのご法話だ。でも、出産や子育てのことではない。子供のころにイメージしていた獲信者、褒められるために、有り難いものや分かったことを身につけていくことだったが、聞法するなかで、それらはどんどんとはぎ取られて、落ちていく身を聞かせていただいたという内容たったと思う。
「と思う」といったのは、マイクに離れた場所からの法話で、こちらはスピーカーなしで大勢で拝聴していたこともあって、半分は(特に後半)は、ほぼ聞き取れなかった。その分、聞き取ろうと集中して坐らせてもらえのた。なによりも、赤ちゃんを抱きながらのお母さんのご法話が聞けたのだが、その姿に出会えただけでも有り難かったのだ。
おかげで、変則的な進行になった広島支部法座も、内容は充実していた。初参加の方があり、まずは自己紹介。お子さんを亡くされたお母さんの涙、逆にお孫さんが生まれた方の喜びの声、コロナ禍で1年以上ぶりに出会う方、たった5ケ月の間でも、皆さんの身の回りに生老病死の現実が迫っていたのである。そのままの流れで、日礼法話の拝聴し、すぐに法話の分かち合い。初めてリアルにお会いする方が、心を開いて具体的な悩みを話してくださったのは、有り難かった。冒頭の皆さんの開いた態度が影響していたのだろう。「関わり」という部分では、初めての方に寄り添いながら聞けていたのではないか。ご縁が続きそうである。最後までこのまま進んでもよかったが、休憩を挟んで、ご法話。日高支部で味わったことやできことに、心が動かされ、強く刺激を受けていたのかが分かった。『われらの求道時代』から、日高(当時は江原)の二人の老婆の体験談「龍華の御代は遠ければ」を読んでいく。初めて聞かれて、どこまで伝わったかは不明だが、「日高の同人のお念仏は湿っぽくない、『勇みの念仏』だ」という伊藤先生の言葉が有り難い。
最近は、理屈の念仏や取り敢えず念仏、ごちゃごちゃ念仏が多い中での納得の一言。
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春のお彼岸の中日。春も秋も、お彼岸は大阪支部法座が恒例だ。昨年の春は、コロナの拡大の中でも同人宅での家庭法座だったが、今回はコロナ対策で華光会館が会場となる。おかげて、大阪支部だけでなく、京都、東海支部の参加者に加え、初参加の方も3名と、なかなかの盛況で、座談会は分級座談会になった。コロナの拡大の影響で、この1年間は、新しい参加者がとても少なかったが、今月に入って、高山、日高、大阪、広島と、初顔の方がボチボチと増え出している。不自由ではあるが、感染対策を取りながらの法座にも少しは慣れてきたようだ。
浄土和讃の中で「大経讃」と、「正信偈」から、難信の法をテーマにした法話。単にお聖教の解説ではなく、日高支部でのご示談などを通して感じたことがテーマになった。Zoom参加者からの問いで、また刺激を受けた。
「邪見・驕慢・悪衆生」は、決して頭で理解するのではなく、身で聞かせていただくことだ。その身の自己と出会い懺悔させられるといっていい。これは単なるこの世での、人間関係で起こる「驕慢」(おごり・たかぶる)を指すのではない。あくまでも本願に向ってこそ、初めて問題になってくるの壁だ。「弥陀仏の本願念仏」を信楽受持することの難しさは、阿弥陀如来に対する、うぬぼれ、おごりからおこる。ここで煩悩としての驕慢を指すのではなく、本願に対する自力の計らいの心そのものである。ある意味、ご聴聞をしないかぎり、決して問題になってこない心といってもいい。邪見、驕慢であるからこそ、絶対に本願に頭を下げることはない。その自力の壁、自分の心でありながら、自分ではどうしよもない、その心に泣いたことなければ、説明や理屈を聞いて、「分かる、分からない」という話ではないのだ。すぐに格好をつけたがるのが私の自性だが、いい格好せずに、愚者となってブチあっていくしかない。決して聞くこと、つまり頭を下げることが絶対に嫌な自分を聞かせてもらうのだが、つまら」ないブライドで、大事をし損じ、うまく理屈を頭で理解して通っていこうとする者が、なんと多いことか。邪見・驕慢の塊でしかないのだー。南無阿弥陀仏
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連れ合いが芝居の公演をさせてもらったご縁で、連れ合いと一緒にしんらん交流館の公開講座を聞きにいく。「情熱の国、ブラジルに暮らして」というテーマだ。娘たちがブラジルにいることをご存じで、担当の方から、ぜひにとお誘いいただいたのだ。30名ほどの参加だったが、お東のご門首夫妻が一つ前に坐られた。ブラジルが長かったこともご縁があるのだろう。一昨年は、連れ合いの芝居も見に来てくださり、感銘されたということもお聞きした。
https://jodo-shinshu.info/2021/02/25/28155/
ところで今回の講演会。この演題からは正しい内容は伝わってこないが、幅広い皆さんに聞いてもらいたい内容だった。「情熱の国、ブラジルに暮らして」とした方が、やわらかい、とっつきやすいイメージがあったのかもしれないが、内容は、ブラジルに導入された日本の交番制度の指導のために、1年半、ブラジルで活躍された現役の婦警さんのお話。
日本とブラジルの警察や治安に対する考え方の違いから、気質、文化の違い。国連が、世界で最も最悪の治安だといわれたブラジルのサンパウロのファヴェーラ(スラム地域)に、日本の「交番」制度を導入して、画期的に犯罪が減少した取り組みなどが紹介された。これは文化の違いや国の成り立ちの違いもあろが、警察・権力とは、力や武力で犯罪を押さえこむものだという考え方と、住民、地域、行政と協力しながら、武力にたよらない民衆の力で治安を維持しようという戦後の日本式の警察のありようが世界にも高く評価されているということである。
私達は、日本の交番や駐在所、その中での「お巡りさん」しか知らないのだが、世界ではこれが特殊であり、具体的な、身近なやりとりや例話を通して、日本の私達の当たり前が異文化を通して見ると、素晴らしいシテスムで世界に誇る内容であるのが、面白かった。確かに、日本で自動小銃やマシンガンの類を構えている警察官を観ることはなし、街角で銃撃戦が行われることもない。それどころか、ほとんどのお巡りさんは、訓練以外で発砲することがないまま退官するという。一方で、海外では、マフィアや凶悪犯との銃撃戦も珍しくないという。そういえば、中国の新疆ウングル自治区の国境線では、自動小銃をもった警察官に睨まれ、威圧的でとても怖かった。それが犯罪が多かったり、強権的な国では当たり間の姿である。
また地域で防犯や治安対策の取り組み、町内会活動なども、日本独自のものだという。どんなシステムにも善し悪しはあるだろうが、これだけの大国で、大都会でも治安がいい日本社会の基盤がどのように成り立っているのが、世界でも治安が悪い国の一つであるブラジルの取り組みをみれば、それがよく分かってきたのである。
もちろん、単に警察の力や地域の取り組みだけでは改善されない。以前、リオデジャネイロの中でも貧困にあえぐファヴェーラと呼ばれるスラム地域を舞台にした、強盗、麻薬ディーラーなどをして金を稼ぐストリートチルドレンたちの抗争を実話を基にして描く、『シティ・オブ・ゴッド』とブラジル映画を観たことがある。貧困による激しい格差と、付随した教育や就職などの差別による社会不安が、若年層の常態化した犯罪を生むというのが最大の課題ではあるが、そんな中でも、一筋の光明が射しているかのようだった。
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真宗カウンセリグ研究会も、今年度(2020年)の最終回。
西光義敞先生の『育ち合う人間関係』の輪読も、今回が最終回。2017年5月から始めたので、2021年3月まで、4年間、約40回ほどで読んだことになる。これだけ時間がかかると、最初のことはもう忘れている。輪読を始めたころのメンバーもすっかり代わっている。幸い本書は、40歳から76歳までの幅広い年代に書かれた6つの論文が網羅されており、各章は、ある程度関連はあっても、前後の直接の関連はない。「カウンセリングの手引き」というカウンセリング色が濃いものから、真宗カウンセリング、そして最後は、「浄土真宗の聞法と法座に関する一考察」という真宗色が濃いものへと移っていく。最後は、実践的法座論、聞法論で、カウンセリング畑の方にはかなり特異な内容で、気がつくと大半が華光の同人方で、カウンセリング畑の方は脱落されていったのは残念ではあったが、論文の性格から見て、致し方ないだろう。
たぶん、普通の寺院の住職やご門徒さんにしても、儀礼と一方的な法話を聞くだけで終わっていては、信仰座談会のあり方や態度に関しては、体験的に知りうることはかなり難しいかれしれない。その意味では、カウンセリングは初心でも、華光の皆さんには身近なところで実践的に、また我が身の問題として考えることができたのではないだろうか?
最後の「説」と「聞」の問題も、実践の場での今後の課題を頂いた気がした。
次回からは、原点に帰って、ロジャーズ論文の輪読を行います。奮ってどうぞ。
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今年に入って、毎月1本「反社」ものの映画を観ている。ヤクザもの、反社会ものは面白い。
1月に、井筒和幸監督の『無頼』 。
2月には、藤井道人監督の『ヤクザと家族』 。
そして今月は、西川美和監督の『すばらしき世界』 である。
昔は、「ヤクザ映画」「任侠もの」といわれた。無法であっても、任侠や漢(おこと)たちが命をかけ、その散りぎわを美学がテーマになったりもした。それが今では、反社会の時代錯誤の半端もの。それどころか「ヤクザ者に人権はあるのか」がテーマになるほどの絶滅危惧種。その意味での哀れさ、哀愁がテーマとなっているのも共通だ。
余韻が残ったのは、『すばらしき世界』が一番よかった。主人公の実在のヤクザものを、役所広司が演じる。人生の半分を刑務所で過ごした男に社会の眼は冷たい。しかし、母親の面影(幻想)を純粋に追い求め、弱いものいじめを許さず、後先なしに暴力や脅し以外の解決法を知らず、ありまにも純粋、飄々とした時代錯誤の男に、知らぬ間に手を差し伸ばさそうとする人達がいるのである。世間の物差しでの「正義」や「善悪」は、何を基準にしているのか。ほんとうに彼は悪人なのか。そんなことを考えさせられるものだった。監督の西川美和は(デビュー作の『蛇イチゴ』のみDVDで観たが)、2作目の『ゆれる』が強く心に突き刺って、皆さんにお勧めをしたが、とにかくお気に入りの監督である。これも「ヤクザ、ヤクザ」した映画ではなくよかった。
一方は、井筒和幸監督の『無頼』は、第2次世界世界大戦後、親に見捨てられ、貧困と差別の中で、誰にも頼らずに闇の世界でのし上がり、ついに親分となって頭角を現わす過程を、昭和という時代と共に描いている。そして暴対法によって力を削がれて足を洗って仏門に入っていく大河ドラマである。
その意味では、『ヤクザと家族』に登場する舘ひろし演じる親分は、義理、人情に篤く、曲がったものを嫌い、覚醒剤などにはけっして手を出さない。無頼と同じ親分がモデルじゃないかのというような、古きよき?親分を演じている。その男にほれて、親子の契りを結び、全盛期から衰退、そして哀れな末路をたどる漢(おとこ)を、綾野剛が演じていた。一番、哀れ度が高かった。
それぞれが面白かったが、真面目な善人の人生よりも、道を外した無頼の生きかた方が俄然、面白く、小説や映画の主題になっているはどうしてか。どこかで、そうなれない分、嫌いながらも、妙な憧れがあるのかしれない。
ところで実際に暴対法以降のヤクザの人権をドキュメンタリー映画は以下に紹介していますので、読んでください。
『ヤクザと憲法』: かりもんの実践的!真宗法座論 (cocolog-nifty.com)
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日高法座では、『われらの求道時代』から、「龍華の御代は遠けれど』を紹介した。
日高(当時は江原)の、二人の老婆が登場する。一人は、この会所の女主人の御母堂である。もう一人も、今、集うの方の善知識にあたる方だ。聞き手は伊藤先生で、助っ人で増井先生が加わらっておられる。
この対談は、今から65年前のことである。そしてそこで語られるのは、この地に真実信心の根を植えられた先代の鎌田顕昭師との出会いから始まるのだが、この地の寺院に鎌田師が入られて真実が伝えられるようになったのだ。この対談から遡ること35年前のこと。つまり、100年も前もこの地に根ざした仏法が広がっていったのである。それは伊藤善先生が、奈良の野口村、野口道場で堀尾よし同行に出会い、およし同行に育てられた念仏者の仲間の導かれて信心獲得の身となられた時と、ほぼ同時期にあたるのだ。日高の地でも鎌田師の薫陶の元に、無碍の念仏者が輩出し念仏運動が盛んであったのだ。しかし、あまりに加熱する念仏の声に村は二分され、さまざまな圧力や迫害によって、鎌田師はこの地を離れざるおえなくなり、そして旅から旅の行脚の僧として、若くして旅先でご往生なされるのである。
その三十三回忌法要を営むにあたり、信心のある僧侶を探して求めておられた時、隣町の豊岡で布教中であった増井悟朗師との出会いがあるのだ。悟朗先生がまだ30歳前の学生時代のことである。
「この方には信がある!」
先代の薫陶を受けられた方々は、若い僧侶のお説教を聞くなり、そう叫ばれたと言う。早速、日高の地にお招きして、1週間も滞在してのご砲法座が続いたのである。この若い僧の教導によって、この地に再び、念仏の炎が燃えあがるのだ。鎌田先生の導きを受けた親世代が中心となって、20代、30代の青年たちが信心を喜ぶ身となって、激しい念仏運動が起こってくるのである。
なによりも、鎌田師とのそれぞれの出会いが尊く、そしてその念仏が未だに、相続されいることの不思議を感じにはおれない。もうそこから第4世代に入っているのだ。南無阿弥陀仏
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よくぞ、支部法座を開いてくださった。急に担当くださったTさんのご尽力に感謝だ。
二転三転した支部法座。初日は、20代で亡くなった娘さんのご家族との仏縁を結ぶための法供養法座が企画された。内容も、ご縁も含めて、力が入っていた。ところがご家族が不参加となり、急に普通の家庭法座に変更。そのプロセスでもいろいろあったが、今度は、その担当者自身が倒れられた。支部法座自体の開催が危ぶまれたが、よくぞ踏ん張ってくださった。法座会場、食事場所、参加者のホテルに、女性陣は自宅でのお宿、さらに懇親会会場と、すべてを数日間で変更してくださったのである。「中止にします」との一言の方が絶対に楽であったのに、法座を開くという執念にはに頭が下がる思いであった。
おかげで、連れ合いだけでなく、娘も、初めて日高法座に参加することができた。親子三代でこの地に足を踏み入れることは、何も土地の問題ではない。そこに生きておられる、生きた念仏者に出会ってもらえたのである。
仏法に出会うとは、今、ここでご法を喜んでいる念仏者に出会うことだ。知識を得るため、成長のため、癒しや慰めのため、自己満足のための仏法なら、いろいろあってもいい。しかし、生死を超えていく教えに出会いたいのなら、たとえ一文不知でもいい、ご法を腹底から喜んでいる方に出会うしかないのである。
そのことが身にしみた法座であった。南無阿弥陀仏
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新月の前日、いろいろなことがあった。
午前中は自力整体教室。月4回から3回になったが、18年間も続く習慣である。
午後には消防署の査察をがある。念のため事前に会館内の点検し、消防署の職員から指導を受ける。会館の防火責任者でもあるのだ。先日、防火器具の点検での不具合は、来週に交換することになっている。消防署に書類報告も、毎回提出しているここともあって、特に指導もなく無事に終了。
終わってすぐに佛教大学の講義。10月から再開されているが、対面はなくズームのみ。これも3月で一旦すべて終了する。仏教関係と心理学関係の講義に登録したが、例年以上に多く参加できたのは、リモートのおかげ。今日は、仏教以前のウパニッシャッドでの出家ということについて。最後は、最近のインド事情を現わす、数本のインド映画の紹介。
その空き時間で、華光誌の最終チェックをする。大半は、昨日済んでいて細かな点を修正する。今週は予期せぬ出来事があったが、夕方には予定通りに印刷所に渡った。封筒も在庫が無くなったのでこちらもデザインを一新し、発注した。ぜひお楽しみに。
データを渡し終え、夜の映画を観るために京都シネマへ。雨が降っていたので散歩を兼ねて徒歩で。四条烏丸までは45分強かかるが、インタバール走法で強弱をつけながら歩く。ロシア・ウクライナ映画の『DAU. ナターシャ』 を観る。
ソ連の秘密研究所のレストランのウェイトレスが主人公。延々と続くたわいものない会話。研究所で働くフランス人科学者との生々しいSEX。そして秘密警察による尋問(拷問)によって、密告者に仕立てあげられていくのだが、バイオレレンスと、エロティックな描写、そして、2年間にも渡るセット(ソ連時代の秘密研究所を精密に再現)での生活と撮影という手法も合せて、評価と物議を醸しだした問題作だった。
新月には1日早いが、明日は法座があるので前倒して、断食をする。昼食も夕食も食べない時間を、アクティブに動くことができた。コロナ禍の中で始まった新しい習慣も、ちょうど1年。月1回で、回数はたった12回だか、自分なりには「よく頑張りました」という感じがする。今日は、次々と用事が続いたので空腹も苦にならなかった。
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昨年は、たいへんご縁の深かった同人のご往生が相次いだ。今年に入っても、先輩同人の厳しい無常のご催促が続いている。
死苦だけではない。ポリープ除去のために入院するとか、ガンの闘病に入るとか、とにかく病苦の報告も多い。それも近しい同輩となると人事のようには思えないのだ。病苦や老苦がヒシヒシと身近に迫ってきているのである。
中でも、週始め知らせには驚いた。お世話になってる同人が、脳出血で緊急搬送されたという。しかも、意識不明の危篤状態で、今夜が峠という連絡。1週間前には、会館で、講習会や修繕募金の記念品ことなどの相談したばかりで、その後もメールや電話でやりとりをしていたのだ。
幸い危機は脱して、今は落ち着いた状態になったと聞いて、安堵はした。今後の回復や容態が気がかりで、元気なお姿でお会いしたいと思っている。
それにして、「無常、無常」と聞いていても、実際は何も分かってはいない。身近の方の突然の病や死を前にすると、「うかうかできない」と一瞬は思う。しかし、それは、「もう若くないなー。無理せず健康に留意しなければ…」と、自身の健康や今生事に収まり、決して、仏法聴聞、後生の一大事への驚きではない。無常を無常と聞いても、「常」であろうとする。ほんとうに顛倒しているのである。南無阿弥陀仏
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『春江水暖』 (しゅんこうすいだん)は、余韻を残す映画だった。今年、6本目の中国映画(台湾も含む)だ。昨年も、新世代監督の意欲的な作品を観たが、これも若い監督で、1988年生まれなので、撮影当時はまだ20代だったということか。
中国映画が好きだ。香港や台湾もそうだが、やはり大陸のものがいい。中学生の時にテレビ『水滸伝』にはまってしまった。それ以降、歴史や地理が好きだったが、中でも中国史には興味を持ち続けている。
別に歴史物でなく近現代の中国映画が好きだ。現代に至るまで苦難の歴史が続いているが、この数十年だけでも、これほどめまぐるしく社会情勢が変動し続けている国はない。同時に、権力による弾圧によって表現が不自由な国でもある。そんな大きな流れの中で、小さな個人が翻弄され続けている。それだけ映画となる素材も多く、悠久の時が流れる大河的な時間とあいまっているのだ。
その意味でこの映画は、期待に違わない、いい映画だった。
年老いた母と4人の息子たち。そしてその家族の物語。それぞれがさまざまな事情を抱え、苦闘している姿がごく自然に描かれている。ほとんどがプロの役者ではなく、監督の親戚や縁者であって、役どころそのままに、実生活でも料理人や漁師である。障がいのある子役も、ほんとうの父子での出演だという。でも素人という感じはまったくせずに、見事に風景にはまっている。
中国の江南地域、杭州、富陽の、大河、富陽江が舞台である。この自然が単なる背景ではなく、主役だといってもいい。そしてカメラワーク。ロングショットや長回しの映像で、山水画のようにみずみずしい自然が描かれる一方、急速に進化する大都会の風景も描かれる。そんな急激に変化する社会に呑み込まれている市井の人々と、そして変わらない日常もある。四季おりおりの自然の美しと、大河から搖らめく水蒸気、アジア独特の蒸し暑さが感じられたりもした。
一大絵巻の最後は「巻一完」とクレジットされた。「巻一」は完了は、次ぎの「巻二」に続くことを示していたのである。楽しみである。
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法供養に引き続き日曜日は、高山支部法座である。「菩薩行と四弘誓願」「極難信の法」の二座をテーマにした。
新型コロナのために定員15名に限定。久しぶりに富山からの同人にお会いする。北陸からの同人にお会いするのは、1年以上ぶりである。これまでこの地区の同人方は、他県をまたぐ移動を控えておられて、誰一人としてお会いできていなかった。まだまだ通常の法座にほど遠い。
12月に初めてご参加くださった老・若が、今回もお参りくださった。お二人の聴聞の姿勢が対象的だ。若い方は東京から故郷での聞法なのだが、近くのご実家には戻れず(コロナで帰ってくるなと)ホテルを取られたという。急いて求めておられる姿勢は伝わった来る。逆に、高齢の方が、あまりにも人事のようにノンビリしていおられて、こちらの気が急く。大無常は迫ってきているのだ。ただ、どんなに焦り、都合のよい結果ばかり求めてもダメだ。感情的に聞くと、心も動き、涙になって、信心に近づいたように錯覚するが、単にその場(もしくは自分)に酔っているだけのことも多い。
信心とは、本願を知的に理解するのでも、また感情的に盛り上がるだけでもない。真の聞法は、知も情も超えて、まったく予定外のところから突き刺さるものではないか。予定調和の中で聞いていても、結局、自分のワクからは出ることはできない。「驚きを立てて聞け」といれるが、ほんとにの自分に出会えば、震えるほどの驚きが立ってくるのだ。
一見、遠回りのようで、具体的に、法座ではない日常生活においても、自分の罪悪、無常を聞いていくことがポイントである。別に、信・未信にかかわらない「罪悪観、無常観の常在意識」である。そうでないと、座談会のときに口ごもるしかないのだ。高山の方は、すぐに「口下手」と逃げて行かれる。確かにそれもあろう。ほとんどは、口てはなく、耳の問題だ。法話を漫然としか聞いておられないのである。そして、法座以外の日常の生活がどうであるかも問われて来る。常日頃、仏法とご縁を結ばず、年に数回のルーティンのような聞法だけを重ねても、お味わいが出て来ないのは、当たり前ではないか。別に、勤行しろとか、法話聴聞しろというのではない。やはり「罪悪観、無常観の常在意識」の問題である。これは方法論や獲信のための道具ではない。すぐにコツとか、やり方を学んで、効率よく聞法していきたいのだが、残念ながら、当流にはそのような段階的習得法はないのだ。むしろ、自己を聞くことは、それを剥がされていくことにほかならない。
だからこそ、余計に仏とも法ともないときの、日常生活の自分の姿を聞かせていただくのである。そこにこそ仏様の願いもかかっているのだ。法座のときに優等生の姿を持続させるのでも、そのこころを深めて聞くのでもないのだ。常日頃の、仏とも法ともないお粗末な自分を、具体的な味わいを通してて、座談会や同行の前に口にだしていく。そしてそのうぬぼれを糺していただくのである。仏法は具体的に聞いていくのである。南無阿弥陀仏
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昨年の8月支部法座の前夜、高山支部のFさんがご往生された。90歳になるまで、華光会館での三大行事にはかかさずビデオ撮影してくださり、また編集、ダビングまで、すべてを引き受けて、費用まで負担してくださっていた。
10月の支部法座前夜には、ご家族が集まって法供養としての法座をもってくださった。
今度は、Fさんの奥様が1月にご往生されたのである。
ほんとうに夫婦付随だった。いつもお二人で行事に参加された。晩年は、高齢のご主人が、足の不自由な奥様の手を引いて、高山から高速バスを利用してご参詣くださっていたのである。そして、分級座談会では必ず3階の講師室に参加されていた。父が生きているときからの決め事であった。父が亡きあとも、ぼくの分級になっても、いつもご夫婦で定位置にお座りになってご聴聞されていたのである。
半年もたたないうちに、また法供養法座を営んでくださることになった。
ご法を相続されている娘さんが、残された家族(旦那さん、息子さんたち、そのお嫁さん、またご姉妹)にも、もう一歩、踏み込んで聞法してもらいたいという願いからである。
十分に、仏縁のある方々だ。お念仏を称え、大きな声でお正信偈もあげてくださる。法事ということには、むしろ積極的に座ってくださる。まだお若いのに、お寺でも聴聞され、基本的な教えに関心をもっておられる。
が、ここで終わってはもったいない。後生に一大事があること。この私が信心獲得の身とならせていただくこと。当たり前のことが、この点に絞ってお取り次ぎをさせていただいた。黒白二鼠の説話を取り上げて、落ちていかねばならない一大事の解決のために、もう一歩を出て聞いていただきたい。それが亡くなられた老夫婦の願いでもあったのだ。
法話のあとは、全員から一言ずつ声をいただけた。「自分の信心や後生の問題のために聴聞してはこなかった」という率直な声もいただいた。道を隔てただけで、目の前には明日は法座が持たれる会場がある。ほんとうに目と鼻の先であるが、この一歩を踏み出されるのか。まさに二河白道である。南無阿弥陀仏
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葬儀をお引受けした同人宅での初月忌。宇治に向う。ちょうど1ケ月目なのだが(2月で短いのもあるが)、最近は月日のたつのが早く感じる。まだご遺族のお気持ちは、落ちいていないようだ。
ご家族と一緒にお正信偈をお勤めしたので、そこから「大悲無倦常照我」お心をご法話をさせていただきた。こちらが忘れてばなしでも、大悲のお心は、いつでも、どこでも常に、極重悪人の私を照らし照らしどおしなのてある。
その後、お茶を飲みながらいろいろな話が出た。主にご夫婦が以前、お世話になっておられたある会の話題で、ずいぶんと盛り上がった。気が付く、予定の時間を過ぎていた。週末の高山支部までに終えておく華光誌の作業が残っている。慌てて岐路についた。
どんな高名な方であっても、無常は逃れないということである。南無阿弥陀仏
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朝から、消防器具の点検、水質検査と貯水槽の清掃作業が行われる。消防署や保険所への提出などが義務づけられている。
水質検査を兼ねた貯水槽の清掃は、大きな異常もないようで無事に終わった。、午前中は、トイレも含めて水が使用できず、短時間でも不自由である。
消防器具(消火器や誘導灯、非常警報機など)は、点検のごとに、随時、交換をしているが、今回は非常警報機がひっかかった。25年間、一度も使用したことがないので、押しボタンが劣化していて、3カ所の一斉交換となった。相場の値段はほとんど分からないが、一応、見積りを検討しお願いをした。消火器同様、これからも一度も使用されないことを願っている。
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