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広島支部Zoom法座

 10月以来の広島支部法座。残念ながら緊急事態の発令中とあって会場が使用ができずZOOM開催となる。その分、広島支部以外の東京や東海支部の同人なども参加くださった。

 今回は会館での法話会もなく、久しぶりのZOOMのみ配信のみ。なんとなくZOOMのみの配信法話は慣れない。『難信の法』をテーマに。東海支部では、『大経讃』の三首の和讃を中心にしたが、今回は、『正信偈』を中心にいただく。ZOOMならば画面共有をすれば、分かりやすくお話することができる。しかし、プリントが中心になってただ読むだけでは法話の意味がない。やはり、目の前に参詣者はおられない分、余計、ライブ感を出したかったので、ブリントは配布したが、ブリントに頼らず、その場の気持ちを大切にしながらお伝えることにした。

 「難信の法」といっても、今日、一般的な真宗の理解では、聖道・自力の教えは難しいが、浄土・他力の教えは易い。もしくは、自力では信じることが難しいが、他力では易く信じられる法である。つまり自力と他力を対比するなかで、浄土真宗は、凡夫のための「易い」教えであること強調されているように思える。それは説き手においても、どんなに払っても払っても立ち上がってくる、深く、高く、そして厚い自力執心の壁を前にして、泣き崩れたことのない方がほとんどだからではないか。中にも個人の体験や経験などはどうでもよい。ただ法の尊さを伝えていくのだという風潮もあるが、ぼくは首肯しかねる。生きて仏法、真宗念仏は、凡夫の身を通してしか、同じ凡夫の私には届いてこなかったのである。その意味では、こちらも鎧を抜いて、自分を打ち出してお伝えしていかねばならない。
 
 法は生きて働いているのだ。

 仏法は、決して覚えたり暗記したりする習得する科目ではない。また、それを得るための固定した方法やコツがあるのでもない。むしろ世間の常識に從い、講座で学んだり、方法(コツ)を探したりすることこそが、実は仏法を難しくしている正体なのだが、あまりにそれが世間の正論、常識すぎて、その方向違いに気がつく人は少ない。なかなか手放せないのだ。

 ある意味では、それか難信の所以の一つである。真宗念仏は「超世」なのである。世の常識も、私の想いなども軽々と超えている。ただ頭を垂れるしかない。しかし、現実は、学問や方法論の造花に騙される人がいることはまったく残念である。ご縁とはいえ悲しいことだなー。

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