法話会~涅槃会に想う(2)~
さらに、北上して旅を続けられた釈尊は、クシナガラの近くのパーヴァに来られた時、鍛冶工の子チュンダの供養を受けられる。チュンダの心からの茸料理の供養を摂られ重病になってしまわれるのである。にもかかわらず、釈尊は、成道の前のスジャーターの乳粥と、涅槃に入る最後のこの供養こそが、生涯のどんな食事よりもはるかに大きな果報と功徳があると語られている。供養受けるに値するだけの大功徳がもたされるので、仏(ぶつ)の別名を「応供」と申し上げる。まさに「大応供」として、最後まで働き続けてくださったのである。
「世尊が、鍛冶工の子チュンダの食べ物を食べられ時、重い病が起こり、赤い血がほとばしり出る、死に至らんとすする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいおられた」と伝えられるが、そんな瀕死の釈尊のもとに、スバダラという修行者(外道)が訪問される。お弟子の制止を断り、最後の力を振り絞ってご説法をされるのである。涅槃堂にほど近く、荼毘地に向かって進む道にある小さな精舎が最後の説法地跡だと言われているが、この地で、老苦、病苦の真っ只中でも、娑婆の命が尽きる最期の最期まで仏法弘通に心血を注がれるのである。
とうとうクリナガラのサーラの林にいたった時、釈尊はすべての力がつきてしまわれた。
そして釈尊の死が近いことを知って、歎き悲しむアーナンダに、釈尊は呼びかけれている。
「アーナンダよ、悲しむな。泣いてはならぬ。わたしはいつも教えていたではないか。すべて愛する者とは、ついに別れねばならない。生じた者はすべて、滅する時をもたねばならない。アーナンダよ、なんじは、長い間に渡って、このわたしによく仕えてくれた。それは立派であった。このうえは、さらに精進して、すみやかに汚れのないものとなるであろう。 アーナンダよ、あるいは、なんじらのうちに、かく思うものがあるかも知れない。-われらの師のことばは終わった。われらの師はもはやない-と。だが、アーナンダよ、そう思うのは間違いである。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律とは、わが亡きのちに、なんじらの師として存するであろう」
やがて、釈尊は同行の比丘たちをすべて集めて、
「比丘たちよ、なんじらのうち、なお、仏のことや、法のことや、僧伽のことやあるいは実践のことなどについて、なんぞ疑いもしくは、惑いをのこしている者があるならば、いま問うがよろしい。後になって-わたしはあの時、世尊の面前にありながら、問うことを得なかった-との悔いをあらしめてはならない」
アーナンダが進み出て、もはや一人として疑いを残している比丘はいないと告げた。「では比丘たちよ、わたしは汝らに告げよう。
「この世のことはすべて壊法である。放逸なることなくして、精進するがよい」。
これがブッダの最後の言葉だと言われている。まさに静かな静かなご入滅であった。
しかし、すべてが終わったのではない。むしろ、ほんとうの意味で仏教はこの釈尊の涅槃から始まるといってもいいのだ。若き日、人生の実相は「生・老・病・死」苦であると驚きを立てて出家なさり、そして最後のご説法では釈尊の自らの生身にかけて、「老・病・死」苦を示されるともに、逃れられない無常の理のなかで、聞法精進にして一刻も早く生死を超える教えを聞けよと、ご説法をされ続けておられるのである。
◎「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ
正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」正像末和讃
と親鸞様がうたわれたが、釈尊の涅槃後、正法も、像法の時代も過ぎさり、行ずるものも、また証るものもいない「末法の時代」に突入した。ますます仏法を聞くことは難しくなっている。如来の残された弟子は、悲しみ歎くべき時代に生まれたのである。
しかし同時に、末法の世、五濁悪世に生きる凡夫に向けて放たれた「弥陀の本願」こそが、まさに時機相応の法として、いま光輝いているのである。すべて身をかけて教えを示してくだったお釈迦さまのご恩徳に他ならないのだ。南無阿弥陀仏
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