« 広島支部Zoom法座 | トップページ | 法話会~涅槃会に想う(2)~ »

法話会~涅槃会に想う~

   東京支部法座は今回もZoom法話。例によって、東京支部の皆さん、各自Zoom組、林野会館集合組に分かれ、加えて京都の華光会館では「法話会」という形で法座が持たれた。

 二月十五日は、お釈迦様が涅槃に入られた「涅槃会」である。それにちなんで、「涅槃会に想う」と題して2座、ご法話をさせていただいた。

 お釈迦様の出家の動機の一つである「四門出遊」のエピソードは有名だ。若き日の釈尊、シッダッタ太子が、「老人」(老)「病人」(病)「葬式」(死)として、「沙門」(出家)の姿に触れて、人間の根源的な苦しみ(四苦)と、それを超えていく道を示唆されたてシッダッタ太子は、ついに王子の位も、財産も、妻子も、すべてを捨てて解脱のために出家されるのである。二十九歳の時である。そして、勤苦六年の苦行を経て、その苦行さえも捨て、静かに思惟の果てに、ついに心の悪魔を破り、悟りを得られたのは三十五歳の時のこと。そしてサールナトでの初転法輪から八十歳のお涅槃の時まで、一時も休まれることなく仏法弘通のために心血を注がれていくのである。

 高齢と病に苦しみながらも、最期の旅が始まる。釈尊といえども、この生身に「老・病・死」苦から逃れられないことを、身をもってご説法くださるのである。昨年の二月に、四度目のインド仏跡巡拝の旅を行った。新型コロナ拡大のギリギリのタイミングであったが、「ブッダ最期の旅」と称される「涅槃経」のルートも回らせてもらった。王舍城(霊鷲山)での最後の説法(ヴアッジ族の七つの不退法)し、ナーランダー経由し、バターリ村でガンジス河を渡る。ヴアッジ族のヴイシャーリーでは、「竹林の村」で最期の安居に入られる。村々を通過し、ケサリヤでヴアッジ族との別れて、マッラ国のパーヴアー村でチャンダーの供養をうけられ、クシナガラで入滅されるのである。

 肉体的な苦しみだけではない。釈尊の晩年は世間的にはたいへん悲しいものでもあった。

 その晩年には、釈迦一族の殲滅という悲劇が起こる。コーサラ国のヴィドゥーダハ王によって滅亡させられるのであるが、釈尊が、カピラ城への道を塞ぐように、枯れ木の下に坐り「親族の木陰は、葉がなくても涼しい」と諭し2度まで兵を引き返らせるも、3度目には、ついに決行されてしまう。
 そして、従兄弟であるデーヴアダッダ(提婆達多)の反逆が起こるのは、あまりにも有名だ。
 さらに後継者と目されていたる目蓮尊者、舎利弗尊者との最愛の二人とも相次いでの死別もされる。目連尊者の逝去の悲しむ阿難尊者に対して、「自灯明・法灯明」の説法をされている。

 さて、ブッダ最期の旅では、ヴァイシャリー到着後、重い病になられる。「行け、比丘たちよ。なんじらは、このヴァイシャーリーのあたりに、友人、知人をたよって雨安居に入るがよい。わたしもまた、竹林村において、雨安居に入るであろう」と、最後の雨安居に入られる。

◎「わたしは老い衰え、老齢に達し、齢八十となった。たとえばアーナンダよ、古い車が革ひもの助けによって、やっと動いて行くように、如来の身体は、革ひもの助けによって、やっと動いて行く」。その苦しさは「死ぬばかりであった」と記されている。なんとか釈尊は回復されるが、阿難は、釈尊の亡き後の教団を心配し、釈尊のご指示をまっていた。そこで次の有名な説法がなされる。

◎「教師の握りしめる秘密の奥義などない。アーナンダよ、もしもわたしが<わたしは比丘たちを指導している>とか、あるいは、<比丘たちはわたしに頼っている、などと思っているのであれば、わたしは、わが亡きのちの比丘僧伽について、何事かを語らねばならぬであろう。だが、わたしは、比丘僧伽の指導者であるとも思っていないし、また比丘僧伽はわたしに頼っているとも思ってはいない。だから、わたしは、比丘僧伽にたいして、何事のあらためて語ることがあろうか」と。
続いて、釈尊は、比丘たるものは、たとえわたしが入滅しても、自らの身、自らの心を知り、法を知り、貪欲と憂い悲しみを除いて、「ただ自己を(河の中の)州とし、自己をよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を州とし、法をよりどころとして、他のものを依りどころとせず」。と修行を続けようとするものこそが、高い境地に到達することができるのだと諭されている。

 見事としかいいようがない。この「自灯明・法灯明」のお心を、皆さんと一緒に味わった。

Img_6299

|

« 広島支部Zoom法座 | トップページ | 法話会~涅槃会に想う(2)~ »

法座と聞法」カテゴリの記事