『善き知識を求めて』「信後の悩み」
『善き知識を求めて』も、「信後の悩み」篇に入ってきた。前半は、『仏敵』に至るまでの幼少期からの宗教的心情などが綴られて、学生時代、そして野口道場での5日間の求道の様子は『仏敵』に重複するので、その要点のみが簡潔に語られていく。その意味では本書の本領はここからだ。『仏敵』の続編であると共に、今、私たちひとりひとりの信の有り様、特に情的にも、知的にも「何かを獲た」という幻想を捨てたと、真の聴聞が始まるのだというご教示は、とても重要である。今、ご法を喜んでいるという方でも、ここのところで分かち合える人がどれほどおられるのだろか。
光明水流の不可思議な体験を破り捨て、善友の勧めによって縁他力から因他力へ、本願の実機が知れた、他力金剛信に徹した先には、不思議な霊感があたのだが、その激しい感激時代は3ケ月ほどで過ぎ去ってから、いわば去勢された馬のように腑抜けた状態になったという。
「後生の不安もない。信仰に対する悩みもない。馬ふるれば馬を斬り、人ふるれば人を斬るという切実な求道心もない。現代の心は如何?と問い詰めされると、ただ広い伽藍堂の中に、自分一人がぼかんと座っているようで、これといって不服もないが、何となく寂寥を覚える。いわば信仰生活に対する緊張味が足りない。…」
そして、何となく野口道場の同行集と会っていても面白くない。中には、「その信心でダメだ」と陰口をいうのもいる。すっかり面目を失くして、気が引けてなんとなく疎遠となっていく…。
というまったく率直な告白である。
もちろん、今日でも、よく似た声を耳にすることがある。だいだいが、心境の変化を後生大事に護っている(護らずにおれない?)方に多いのだが、以前のような不安もなく、求めねばいとう力みもない。以前のような聞法に勤しむ心もなく、なんとなく今生事に流されていっても、なんともない。あの時に、このような不思議があったのは確かだが、一体、自分を何を聞いてきたのか。そしてなんとなく法座に足が遠のいたり、もう少し易しい場で聴聞に勤しんだりと、結局、守りに入って逃げていくのである。
が、伊藤先生は、そうはならなかった。いや、そうは問屋が卸してくれなかったのである。(続く)
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