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2021年2月の17件の記事

黒白二鼠(こくびょくにそ)

 久しぶりに日曜礼拝の法話を担当する。本来は、ミニ子供大会の日程だったのだ。

ある旅人が無人の荒野を旅している時、一匹の飢えた虎に遭遇する。恐ろしさに、逃げまどう男は、たまたま1本の木の下にあった古い井戸につるを辿って逃げることができた。一安心したのも束の間、その井戸の底には、大きな大蛇が口を開けてまっていた。上に飢えた虎、下には口を開けた大蛇。絶体絶命の中で、男の顔に、甘い香りのする蜂蜜が落ちてくる。それはこれでまので人生で味わったこといないほどの美味であった。夢中になった男は、今の状況を忘れている。ところが、男が捕まっているつる(綱)は、昼間は白い鼠が、夜にと白い鼠が、カリカリとかじているのだ。最初は驚いた男であったが、しかし、甘い蜜を求めて、日夜奔走することに忙しくて、我が身が、絶体絶命の危機にあることをすっかり忘れているのである。

 子供の時に、日曜学校で聞いて以来、一番心に残っている仏教説話だ。いろいろな先生の口から何度も聞かせていただいたこともあるだろう。でも、それよりも初めて聞いた時の印象が強いのだ。理屈ではなく、率直に「あ、これはぼくの姿だ」と思い、そして「こわーい」と思った。落ちていかねばならない。

 それは年齢を重ねていく中でも同じである。ところが、年をとればとるほど鈍感になっていく自分がいる。面の皮が厚くなったのか。しかし、人生の楽しみである蜂蜜を追い求めていることには変わりはない。むしろ、ますます恐ろしい状況を忘れて(もしくは忘れるために)、人生の蜂蜜を求めつづけているのである。ほんとうの意味では、今の方が恐ろしい説話だ。

 しかし、この話は、決して単なる「人生の実相」を示す説話では留まらない。子供の時、怖くなったぼくは、先生に尋ねた。どうしたら、この悪夢から抜け出せるのかと。その答えは、驚天のものであった。

「いますぐ、握っている綱を離して、落ちていけ!」

「えー、落ちたくないために聞いているのに! 困る~ー」。まさに予想外の謎の答えだった。

その答えを求めて、ずっと聴聞していたのかもしれない。そして、今では、

「そうだ。手を離し、落ちていくかないのだ!!」

と解釈でも、正解でもなく、ほんとうに理屈を抜きにしてそう言える身にならせていただいた。ただこのことが有り難い。
 まあ、握っていても、握ったまんま落ちていくだけですが。南無阿弥陀仏

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京都支部法座~聖徳太子と親鸞聖人~

 ということで、史実のみならず伝承も含めて、親鸞聖人が道に迷われた時には、必ず聖徳太子様にご相談される経緯を頂いた。これは父の大学院時代の恩師でもある大原性実和上も触れておられるのであるが、親鸞聖人への四度のご教示を窺うことが出来る。

 一、十九歳の時、磯長の御廟(叡福寺)での夢告-「いのちはあと十年」(『親鸞聖人正統伝』ある、伝承)

 二、二十九歳、六角堂での夢告-「生死出づべき道を求めて」(『恵信尼消息』811)        
                           
 三、三十一歳、六角堂での夢告-「結婚生活を示唆」(『御伝鈔』第三段・1044) 
  今は、二の示現の文(つまり夢告は1回のみ)の可能性が高い

 四、八十四歳、常従門弟の蓮位房の夢想-「善鸞房、義絶の決意へ」(『御伝鈔』第四段・1046)
  これは、聖人ではなく門弟の蓮位房の夢告だが、この悲劇の前後に、多くの聖徳太子讃仰の和讃を作製されている意味は深い。

 観世音菩薩、世間の人々の悩みを聞き届ける菩薩様の化身でもある聖徳太子は、多く悩み事を聞き届けられた聖君として知られている。その意味でも、聖人は、聖徳太子に道を尋ねられていくのではないか。

 また太子は、和国の教主(日本に生まれたお釈迦様)ではあるが、出家者ではなく妻帯をされた俗人として仏道を歩まれた先達としても、聖人にとっては特別な想いがあったのではないか。今では、伝承的ではなあるが、聖徳太子か講義された大乗経典は、『法華経』『維摩[ゆいま]経『勝鬘[しょうまん]経』であるが、『維摩経』は、在俗の維摩居士が、舎利弗を始めとする仏弟子(声聞)方をやりこめて、文殊菩薩をもしのぐ智慧で、空の思想を明らかにするものである。また『勝鬘経』は、勝鬘夫人という女人が説き、また女人への救いを説く教えである。そして、『法華経』は、一乗思想による悪人も含めたすべてのものの救いを説く経典であることからも、在俗のもの、女人、そして一切ものが救われていくことを示されているのも、聖人にとっては大きな指針になっているのではないだろうか。 

 「世間虚仮 唯仏是真」(天寿国繍帳)  

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京都支部法座~聖徳太子讃仰~

 2月22日は、旧暦で聖徳太子のご命日にあたる。推古帝の622年2月22日のことである。つまり今年は、千四百回大遠忌という節目の年にあたるのだ。法隆寺や四天王寺はもちろんのこと、和国の教主(日本に生まれたお釈迦様)である聖徳太子を敬い奉るご宗派も多く、さよざまな法要や行事が計画されている。ただし、大半は、4月になってからだ。2月22日は旧暦のご命日なので、ほとんどが新暦で行われるのである。親鸞様のご命日も、東(旧暦11月)西(新暦1月)本願寺でも異なると同じだ。

 今日は、旧暦のご命日の前日、つまりお逮夜にあたる。
 
 日本人の太子信仰は古くから根強いが、親鸞様の場合はそれが際立っている。晩年におよんでさらに深まったようで、太子奉讃の和讃を、83歳で75首、85歳で114首、さらに86歳前後の11首も作っておられる。特に最後の『正像末和讃』の11首は、前二者が史伝を述べるのに対して、教義を讃嘆されその讃意も深く、かつ格調の高いもので、太子傾倒の聖人の心情のほどを知ることができる。
 その要点は、太子の本地は観音菩薩であり、また末法の日本に出現された釈尊でもある(和国の教主・聖徳王)。日本国民は、久遠劫より現世まで、太子の父母のような慈育をいただいてきた。そのお勧めによって、万民がひとしく本願に帰入して、現実において正定不退の身になることができる。この広大な恩徳を、より多くの人に広めて、たえず奉讃すべきであるというものである。
 実際、宗祖は、家庭内に常に太子像を安置されたようで、これを真宗寺院が継承して、本山から末寺まで、本堂に太子像を掲げるのである。この像は、二十五条の袈裟に香爐を手にされた太子14歳の孝養のお姿である。その甲斐もなく、4月に天皇は崩御されるが、その6月には、仏敵守屋を誅伐されて、仏法興隆を図られたという因縁によるものだというのである。(続く)

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同人の一周忌法要

 京都の同人の一周忌法要が営まれた。

 ご主人、お子さん、そして姉妹と、仏縁もあったご親戚が揃われる中で、その中心におられたご本人が不在なのが、何か妙である。ほんとうは入院中で、ふっと顔を出されるような気がすると話すと、皆さんも同じような頷いておられる。しかし、実際は、丸1年の年月が過ぎ去っている。ご主人は、「早いようで、また長いような、とにかく夢・幻のような1年だった」と言われた。社会も、新型コロナに振り回れた1年だったが、故人は、結局、コロナに怯えることなくご往生されている。

 彼女の誕生日は、上皇さまと同じ12月23日だった。平成時代の天皇誕生日には、お誕生日を兼ねた家庭法座を開催し続けてくださった。そしてご命日は2月22日。聖徳太子のご往生の日である。

 聖徳太子は、憲法十七条の第二条で「篤く三宝を敬う。三宝とは、仏・法・僧である」という有名な言葉を残された。時代や国、宗派が異なっても、仏・法・僧の三宝に帰依する(三帰依)ことこそが、共通の仏教徒が仏教徒である所以である。

 その仏法僧の「法」(のり)を名前に頂いておられる。まさに、仏法を大切に、仏法を聞く子になれよという両親の願いどおりに、仏法を喜ぶ身となられたのである。まさに仏法の子としてのご一生だった。と同時に、愚痴の女人でもあった。余計な一言で、いろいろ人ともトラブルを起し、そのたびに落ち込んだり、怒ったり、傷ついたりと、とにかく煩悩生活に忙しいご一生だった。やはり、憲法十七条にある「共に凡夫のみ」を体現されている。そして、聖徳太子の一番有名なお言葉である「世間虚仮、唯仏是真」を身をもって味わい続けられたご一生ではなかったか。
 
 そんなことをご法話で伝えさせていただいた。会食時には、3名の方から法話感想や質問をいただいた。すぐに仏縁につながることは難しいだろうが、聞き放しでは終わらずに、一口でも話が出来たのがうれしかった。願わくば、お子さん、ご姉妹にも再び仏縁がつながればと想いながら、お念仏と一緒にお別れした。

「忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)ることあり。かれ是(よ)んずればすなはちわれは非(あし)んず、われ是(よ)みずればすなはちかれは非んず、われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫(ただびと)ならくのみ。是く非しきの理、たれかよく定むべき。あひともに賢く愚かなること、鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし」(『憲法十七条』第十条)

 

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紅梅、白梅

 散髪に出かけた。

 三寒四温ではないが、このところ20度近くになる春のような陽気があったかと思うと、最低気温が氷点下となって厳冬に戻るといった、寒暖の差が激しい気温が続いている。好天の日が続くが、北風や西風の強い日は寒く、南風の日は温かいようだ。

 帰路、梅小路公園を散策する。コロナ禍の自粛生活の中で生まれた習慣かいくつがある。その中の一つが散歩である。それまでの散歩と違う点は、3分交合に早歩きと普通歩きを繰り返す、インタバール走法を30分間以上している。これがなかなかいい感じである。

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 梅園を横切ると、紅白のウメが咲いていた。見頃はもう少し先かもしれないが、早いものは紅白ともに咲いている。

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 風はまだ冬の冷たさだったが、青空の中で、春は確実に近づいている。

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<白梅は冬至>
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<紅梅は大盃>
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<新平家は、淡いピンク>
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<春の訪れを感じる>

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刺激

 2月の真宗カウンセリング研究会の月例会は、輪読学習会をやめて来年度の事業の相談を行う。1月の世話会だけでは決めきれたのは、今年も新型コロナの影響が大きい。緊急事態宣言発令中の最中に、宿泊研修会の予定を決めることは難しい。しかも今年は、60周年の節目の年を迎える。30周年、40周年、そして50周年と、規模はそれぞれ違うがなんからの記念事業を行ってきた。ただ、今年ご講師を招いても、いまの状況が続くと集客も難しいだろう。何か打破する方法はないか。

 悲観的なことばかりではない。何度か試験を行い、昨年5月からはZoomでも月例会を開くことができ、会員の交流が見違えるように活発になった。ならばリモートを活用して、ご講師を招いた定期的な勉強会などが出来ないか。それには、皆さんのお知恵をかり力添え必要なのだ。

 残念ながら、月例会ので輪読する中身を、久しぶりにロジャーズ論文を読むこと以外は、決定事項はなかった。
 では意味がなかったかといとう、いろいろな話題から大いに刺激を受けた。ミニカウンセリングの意義、世話人の役割、そしてほんとうに実力をつけるにはどうするか。またカウンセラーの態度、そしてお互いが何を目指しているのか。話題以上に、個人的には刺激を受けて、終了後はいろいろと心が動いた。これでこそ、真宗カウンセリングの相談である。

 それにして、この30年間、理論学習会や月例会でどれだけの論文を読んできたことだろうか。また、逐語録を作製したミニ・カウンセリングでの学びで、学んできことはなんだったか。
 どれだけ身になっていると問われればお粗末ではあるが、さまざまな学びを経験させてもらってきたことに、いまさらながら驚いた。

 

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着物

 連れ合いと娘が、2月から着物の着付け教室に一緒に通いだした。連れ合いは初心者。娘は、自己流では着ることが出来るが、本格的に学びたいという。

 そんな時、ある同人から、長女が着物をいただくことになった。しかも桐タンスごと運搬してくださるという、たいへん有り難いお話である。

 法話会に合せて、第一陣がやってきた。恐縮するしかないが、女性陣は大喜びだ。娘がお正月に着、報恩講での書籍受付でも着たことが因縁となって、とんとんと話が決まったのだ。

 頂く当方は、待ちの姿勢であるが、贈ってくださる側はたいへんだっただろう。品物を一つ一つ点検し、考え、選び、クリニーグに出し、さらに運版の方法を考えてとご苦労がある。きっと処分するほうがもっと楽だったろう。ただせっかくの想いがこもった品をそう簡単には処分できない。それよりも喜んで活用される方があるならば有り難いと、お話をいただいた。

 贈る側がいろいろと考え、考えて、届けてくださったのである。今生事で、また人間の行いなので、簡単には比べられないか、まるで南無阿弥陀仏が、一方的に届けられるようなものである。送れ手の想いや苦労などは、お聞きしないとなかなか分からないのである。

 ありがとうございました。

 

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法話会~涅槃会に想う(2)~

 さらに、北上して旅を続けられた釈尊は、クシナガラの近くのパーヴァに来られた時、鍛冶工の子チュンダの供養を受けられる。チュンダの心からの茸料理の供養を摂られ重病になってしまわれるのである。にもかかわらず、釈尊は、成道の前のスジャーターの乳粥と、涅槃に入る最後のこの供養こそが、生涯のどんな食事よりもはるかに大きな果報と功徳があると語られている。供養受けるに値するだけの大功徳がもたされるので、仏(ぶつ)の別名を「応供」と申し上げる。まさに「大応供」として、最後まで働き続けてくださったのである。

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「世尊が、鍛冶工の子チュンダの食べ物を食べられ時、重い病が起こり、赤い血がほとばしり出る、死に至らんとすする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいおられた」と伝えられるが、そんな瀕死の釈尊のもとに、スバダラという修行者(外道)が訪問される。お弟子の制止を断り、最後の力を振り絞ってご説法をされるのである。涅槃堂にほど近く、荼毘地に向かって進む道にある小さな精舎が最後の説法地跡だと言われているが、この地で、老苦、病苦の真っ只中でも、娑婆の命が尽きる最期の最期まで仏法弘通に心血を注がれるのである。

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 とうとうクリナガラのサーラの林にいたった時、釈尊はすべての力がつきてしまわれた。

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 そして釈尊の死が近いことを知って、歎き悲しむアーナンダに、釈尊は呼びかけれている。

 「アーナンダよ、悲しむな。泣いてはならぬ。わたしはいつも教えていたではないか。すべて愛する者とは、ついに別れねばならない。生じた者はすべて、滅する時をもたねばならない。アーナンダよ、なんじは、長い間に渡って、このわたしによく仕えてくれた。それは立派であった。このうえは、さらに精進して、すみやかに汚れのないものとなるであろう。 アーナンダよ、あるいは、なんじらのうちに、かく思うものがあるかも知れない。-われらの師のことばは終わった。われらの師はもはやない-と。だが、アーナンダよ、そう思うのは間違いである。アーナンダよ、わたしによって説かれ、教えられた教法と戒律とは、わが亡きのちに、なんじらの師として存するであろう」
 やがて、釈尊は同行の比丘たちをすべて集めて、
 「比丘たちよ、なんじらのうち、なお、仏のことや、法のことや、僧伽のことやあるいは実践のことなどについて、なんぞ疑いもしくは、惑いをのこしている者があるならば、いま問うがよろしい。後になって-わたしはあの時、世尊の面前にありながら、問うことを得なかった-との悔いをあらしめてはならない」
アーナンダが進み出て、もはや一人として疑いを残している比丘はいないと告げた。「では比丘たちよ、わたしは汝らに告げよう。
 「この世のことはすべて壊法である。放逸なることなくして、精進するがよい」。
 これがブッダの最後の言葉だと言われている。まさに静かな静かなご入滅であった。
 しかし、すべてが終わったのではない。むしろ、ほんとうの意味で仏教はこの釈尊の涅槃から始まるといってもいいのだ。若き日、人生の実相は「生・老・病・死」苦であると驚きを立てて出家なさり、そして最後のご説法では釈尊の自らの生身にかけて、「老・病・死」苦を示されるともに、逃れられない無常の理のなかで、聞法精進にして一刻も早く生死を超える教えを聞けよと、ご説法をされ続けておられるのである。

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 ◎「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ
   正像の二時はをはりにき  如来の遺弟悲泣せよ」正像末和讃

と親鸞様がうたわれたが、釈尊の涅槃後、正法も、像法の時代も過ぎさり、行ずるものも、また証るものもいない「末法の時代」に突入した。ますます仏法を聞くことは難しくなっている。如来の残された弟子は、悲しみ歎くべき時代に生まれたのである。

 しかし同時に、末法の世、五濁悪世に生きる凡夫に向けて放たれた「弥陀の本願」こそが、まさに時機相応の法として、いま光輝いているのである。すべて身をかけて教えを示してくだったお釈迦さまのご恩徳に他ならないのだ。南無阿弥陀仏

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法話会~涅槃会に想う~

   東京支部法座は今回もZoom法話。例によって、東京支部の皆さん、各自Zoom組、林野会館集合組に分かれ、加えて京都の華光会館では「法話会」という形で法座が持たれた。

 二月十五日は、お釈迦様が涅槃に入られた「涅槃会」である。それにちなんで、「涅槃会に想う」と題して2座、ご法話をさせていただいた。

 お釈迦様の出家の動機の一つである「四門出遊」のエピソードは有名だ。若き日の釈尊、シッダッタ太子が、「老人」(老)「病人」(病)「葬式」(死)として、「沙門」(出家)の姿に触れて、人間の根源的な苦しみ(四苦)と、それを超えていく道を示唆されたてシッダッタ太子は、ついに王子の位も、財産も、妻子も、すべてを捨てて解脱のために出家されるのである。二十九歳の時である。そして、勤苦六年の苦行を経て、その苦行さえも捨て、静かに思惟の果てに、ついに心の悪魔を破り、悟りを得られたのは三十五歳の時のこと。そしてサールナトでの初転法輪から八十歳のお涅槃の時まで、一時も休まれることなく仏法弘通のために心血を注がれていくのである。

 高齢と病に苦しみながらも、最期の旅が始まる。釈尊といえども、この生身に「老・病・死」苦から逃れられないことを、身をもってご説法くださるのである。昨年の二月に、四度目のインド仏跡巡拝の旅を行った。新型コロナ拡大のギリギリのタイミングであったが、「ブッダ最期の旅」と称される「涅槃経」のルートも回らせてもらった。王舍城(霊鷲山)での最後の説法(ヴアッジ族の七つの不退法)し、ナーランダー経由し、バターリ村でガンジス河を渡る。ヴアッジ族のヴイシャーリーでは、「竹林の村」で最期の安居に入られる。村々を通過し、ケサリヤでヴアッジ族との別れて、マッラ国のパーヴアー村でチャンダーの供養をうけられ、クシナガラで入滅されるのである。

 肉体的な苦しみだけではない。釈尊の晩年は世間的にはたいへん悲しいものでもあった。

 その晩年には、釈迦一族の殲滅という悲劇が起こる。コーサラ国のヴィドゥーダハ王によって滅亡させられるのであるが、釈尊が、カピラ城への道を塞ぐように、枯れ木の下に坐り「親族の木陰は、葉がなくても涼しい」と諭し2度まで兵を引き返らせるも、3度目には、ついに決行されてしまう。
 そして、従兄弟であるデーヴアダッダ(提婆達多)の反逆が起こるのは、あまりにも有名だ。
 さらに後継者と目されていたる目蓮尊者、舎利弗尊者との最愛の二人とも相次いでの死別もされる。目連尊者の逝去の悲しむ阿難尊者に対して、「自灯明・法灯明」の説法をされている。

 さて、ブッダ最期の旅では、ヴァイシャリー到着後、重い病になられる。「行け、比丘たちよ。なんじらは、このヴァイシャーリーのあたりに、友人、知人をたよって雨安居に入るがよい。わたしもまた、竹林村において、雨安居に入るであろう」と、最後の雨安居に入られる。

◎「わたしは老い衰え、老齢に達し、齢八十となった。たとえばアーナンダよ、古い車が革ひもの助けによって、やっと動いて行くように、如来の身体は、革ひもの助けによって、やっと動いて行く」。その苦しさは「死ぬばかりであった」と記されている。なんとか釈尊は回復されるが、阿難は、釈尊の亡き後の教団を心配し、釈尊のご指示をまっていた。そこで次の有名な説法がなされる。

◎「教師の握りしめる秘密の奥義などない。アーナンダよ、もしもわたしが<わたしは比丘たちを指導している>とか、あるいは、<比丘たちはわたしに頼っている、などと思っているのであれば、わたしは、わが亡きのちの比丘僧伽について、何事かを語らねばならぬであろう。だが、わたしは、比丘僧伽の指導者であるとも思っていないし、また比丘僧伽はわたしに頼っているとも思ってはいない。だから、わたしは、比丘僧伽にたいして、何事のあらためて語ることがあろうか」と。
続いて、釈尊は、比丘たるものは、たとえわたしが入滅しても、自らの身、自らの心を知り、法を知り、貪欲と憂い悲しみを除いて、「ただ自己を(河の中の)州とし、自己をよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を州とし、法をよりどころとして、他のものを依りどころとせず」。と修行を続けようとするものこそが、高い境地に到達することができるのだと諭されている。

 見事としかいいようがない。この「自灯明・法灯明」のお心を、皆さんと一緒に味わった。

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広島支部Zoom法座

 10月以来の広島支部法座。残念ながら緊急事態の発令中とあって会場が使用ができずZOOM開催となる。その分、広島支部以外の東京や東海支部の同人なども参加くださった。

 今回は会館での法話会もなく、久しぶりのZOOMのみ配信のみ。なんとなくZOOMのみの配信法話は慣れない。『難信の法』をテーマに。東海支部では、『大経讃』の三首の和讃を中心にしたが、今回は、『正信偈』を中心にいただく。ZOOMならば画面共有をすれば、分かりやすくお話することができる。しかし、プリントが中心になってただ読むだけでは法話の意味がない。やはり、目の前に参詣者はおられない分、余計、ライブ感を出したかったので、ブリントは配布したが、ブリントに頼らず、その場の気持ちを大切にしながらお伝えることにした。

 「難信の法」といっても、今日、一般的な真宗の理解では、聖道・自力の教えは難しいが、浄土・他力の教えは易い。もしくは、自力では信じることが難しいが、他力では易く信じられる法である。つまり自力と他力を対比するなかで、浄土真宗は、凡夫のための「易い」教えであること強調されているように思える。それは説き手においても、どんなに払っても払っても立ち上がってくる、深く、高く、そして厚い自力執心の壁を前にして、泣き崩れたことのない方がほとんどだからではないか。中にも個人の体験や経験などはどうでもよい。ただ法の尊さを伝えていくのだという風潮もあるが、ぼくは首肯しかねる。生きて仏法、真宗念仏は、凡夫の身を通してしか、同じ凡夫の私には届いてこなかったのである。その意味では、こちらも鎧を抜いて、自分を打ち出してお伝えしていかねばならない。
 
 法は生きて働いているのだ。

 仏法は、決して覚えたり暗記したりする習得する科目ではない。また、それを得るための固定した方法やコツがあるのでもない。むしろ世間の常識に從い、講座で学んだり、方法(コツ)を探したりすることこそが、実は仏法を難しくしている正体なのだが、あまりにそれが世間の正論、常識すぎて、その方向違いに気がつく人は少ない。なかなか手放せないのだ。

 ある意味では、それか難信の所以の一つである。真宗念仏は「超世」なのである。世の常識も、私の想いなども軽々と超えている。ただ頭を垂れるしかない。しかし、現実は、学問や方法論の造花に騙される人がいることはまったく残念である。ご縁とはいえ悲しいことだなー。

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59歳

 今年もおかげさまで誕生日を迎えることでできた。
 昨年は、じわじわ新型コロナの影が迫ってきていたが、まだそこまでの影響はなかったが、漠とした不安が拡大していたころだ。今年は、緊急事態宣言下であるが、不思議となんと不安感は薄らいでいる。

 5年ぶりに娘がお祝いしてくれた。フラジルにいた時は、帰国にしていも新学期が始まる2月には戻っていたからだ。

 ワインを開けて手巻き寿司を食べた後で、前日から仕込んだショートケーキでお祝いしてくれた。例によって力作である。ありがとう。

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 59歳のローソクを前に、来年は還暦だがまったく信じられない。もうそんな歳になってしまった。現実には老いは迫ってきている。髪の毛、目、歯、泌尿器、そして体力と、からだの衰えや不調からは、年を実感ぜずにはおれなくなっている。まさに「老いるショック」である。

 ではでは、それに見合うような仕事をしているか。と問われるとまだまだ未熟、まったくお恥ずかしい限りである。

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葬儀

  急な葬儀の依頼が来た。だいたい急なのだが、まったく予想外からのお話である。

 つくづく不思議なご因縁を思う。まだ華光とのご縁は浅いが、ご夫婦、お子さまともに同人で、いまや会館の行事に欠かせない存在になっておられる。

 もともとは他県にお住まいであったのが、故郷にお戻りにならずに、華光会館のある京都に引っ越してこられたのだ。しかも、いつもお盆参りするお家の近くで、その方の家の前を往復していたのである。ということで昨年のお盆参りには新宅訪問を兼ねて、お参りさせていただいた。その時、初めてお母様もお会いさせていただいた。ご高齢でも、お元気でしっかりされていた。そのおりに、何かがあれば葬儀をお願いできるのかという話もあって、行事や法座と重ならないことをお願いしてお引受けしていたのである。

 それがまた半年前のこと。その後、具合が悪いというも聞かず、ご夫婦も直前まで法座にお参りされていたのだから、ほんとうに急に息を引き取られたのだという。

 コロナ禍ということもあり、ほんとう意味での家族葬となった。その意味ではよく存じあげている方のみで気楽ではあるが、やはり慣れない緊張感はある。

 聖典講座の前後に、法名を準備し、臨終勤行(枕経)、通夜勤行と続いた。昨年も2月に京都支部の同人のお葬儀があってこのところ続いているので、けっこう慣れて来ていると思うのだか、葬儀の勤行の練習、中でも七条の着付けは、毎度、連れ合いと練習しておかねばらかった。毎回毎回、「次回はもう大丈夫だね」といいつつ、半年、一年と間が開くとすっかり忘れている不甲斐なさだ。

 しかしこれはこれでいいような気もする。あまり慣れてしまっては、何か本業かが分からなくなってしまう。それでは意味がない。ただお引きうけした以上、出来る限り精一杯勤めさせていただいた。臨終勤行(枕経)、通夜勤行。出棺勤行に、葬場勤行、お山での火屋勤行、還骨勤行の後、初七日の法要と、何度も、一同で心を合わせて勤行させていただいた。また何度かご法話も聞いていただくことにもなった。故人を縁としていただいた法縁の場であることは変わりはない。

 しばらくはご法縁が続くことになる。ご夫婦ともゆっくりお話する機会も増える。よろしくお願いいたします。

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『御伝鈔』(6)第五段~法然聖人の讃文~

 完成した法然聖人の真影に、法然様自ら「南無阿弥陀仏」と以下の善導さまの『往生礼讃』(行巻引用)の文を、書き入れてくださったのである。

  「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」

 書き下しは、「『もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ』と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と」

 それを意訳するならば、「第十八願に『もし私=法蔵が阿弥陀仏という仏になったとき、全宇宙の生きとし生けるもので、私の名(南無阿弥陀仏)を称えるものは、それがたとえ十声しか称えられないものであっても、みな浄土へ生まれさせてみせましょう。もしそれが出来ないなら、私は決して仏になりません』と。さらに『重誓偈』でも、もしこの誓いが成就しなければ、決して仏にならないと重ねて誓っておられる。そう誓われた法蔵菩薩が、いま現に仏となっておられるように、本願と重誓は成就して決して空しくありません。それで名号称念する衆生は必ず往生できるのです」と。

 これは、善導様の「本願加減の文」(本願文の三信を減らし、称名を加える)とも、また「自解本願の文」ともいわれる文だ。「彼仏今現在世成仏」の「世」が略されているのだが、これは大きな問題ではない。むしろ、本願に信心ではなく、十声の称名を加えられたことが、浄土教の大転換となる。これが善導様から法然聖人へと流れる一願建立の立場となるのだが、さらに親鸞様は、善導~法然両祖の意図を明らかにするために、五願開示のお示しで、本願のお心を明らかにしてくださるのであるが、そのことは3月の講習会で詳しく述べていきたい。
 
 なお、この「選擇相伝御影」は、岡崎市の高田派「妙源寺」に伝承(柳堂のお寺)かといわれている。2度参詣させていただいたが、ほんとうに柳堂はすばらしい建物で、この狭い場所で、聖人の法座が開かれていたと思うと感無量だった。南無阿弥陀仏

 

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『御伝鈔』(6)第五段~『選択集』について

 そこでその『選択本願念仏集』について簡単に窺った。

『選択集』の撰述の経緯であるが、 建久八(一一九七)年、六十五歳の法然聖人は病に悩まされる。前関白、九条兼実公はいたく心配され、回復を待って「浄土の法門については年来承っっているが、まだ心にとどめえない点がある。なにとどこの際、肝要なことについて記述して頂きたい」と懇請。そこで真観房感西、安楽房遵西と善恵房証空(堪文役)の三名を執筆役(三筆四交代)に命じて、翌年春、十六章からなる『選択本願念仏集』が完成する。草稿本は京都の廬山寺蔵。冒頭の(十四文字)のみが法然聖人の真である。

『選択集』の大要は、選択本願(第十八願)に寄って、称名一行を専修と主張し、浄土宗の独立を宣言した、浄土宗の立教開宗の書。冒頭に「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為先」(親鸞聖人伝授本は「念仏為本」)と、念仏往生の宗義を標示し、以下十六章に分けて、称名念仏こそが本願にかなう選択の行業である旨が述べている。(ちなみに「先」=宗要、肝要、かなめの意。「本」=根本最要の意。共に同意とみてもいい)。
 各章ともに、標章の文・引文・私釈の順で構成。標章の文は主題を簡潔に示し、引文ではそれを証明する「浄土三部経」や解釈の文(大半が善導大師)を引き、最後に、私釈(「わたくしにいはく」)で、法然聖人の解義が明示される。 特に、第一の二門章、第二の二行章、第三の本願章の三章に要義が説かれる。また、この三章の意をまとめたものが、本書の結論ともいうべき「三選の文」(これも窺ったが略す)。

 またレジュメでは、十六章の〈標章の文〉と、略称、そして『浄土三部経』の引用(ただし、第一章『安楽集』、第二章『観経疏、』第九章は『往生礼讃』)以外)などを列記したが、ここでは煩雑になるので省力する。

 ところで、この書の書写を許されたものは、極めて少ない。『選擇集』の結びは、本書を一度御覧になった後は、「壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ」とし、これを非難する(破法)の人が、悪道に落さないためだと言われた。法然門下には、約二百名ほどの直弟子(『七ケ条起請文』に記載)があったが、本書の相伝弟子はきわめて少ない(後序にも「この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し」とある)。はっきり分かっているのは以下の10名程度か。
 長楽寺隆寛律師(多念義)・幸西大徳(一念義)・小阪證空大徳(西山義)・鎮西聖光大徳(鎮西義)・九品寺長西大徳・信空大徳(一番弟子、弟弟子)親鸞聖人。おそらく源智(晩年まで長年随従)と、執筆の感西、遵西。

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『御伝鈔』(6)第五段~「選択付属」

 『御伝鈔』は上巻の「選択付属」(せんじゃくふぞく)と題される第五段。法然門下に入られて4年、親鸞聖人三十三歳の時に、法然聖人の選択本願の法りを正しく領解していると、『選択集』の書写と(法然聖人の真影の図画が許され)、また改名の名を記してくださるという一段だが、覚如上人は『化身土巻』後条を引用して確かめられているので、この段の大半が親鸞聖人の『化身土巻』の文章で、もともとは漢文だったところだ。
 
 その『化身土巻』の引用部分を要約すると、
 建仁元年(聖人二十九歳・法然聖人六十九歳)「雑行を棄てて本願に帰す」身となった。
 元久二年(聖人三十三歳・法然聖人七十三歳)『選択集』の書写を許された。
 同年四月十四日、内題と標宗の文、そして「釈綽空」の名を書いてくださった。
 同日、法然聖人の真影の図画が許されった。
 同年七月二十九日、図画完成。法然聖人がその真影の銘として「南無阿弥陀仏」と「本願加減の文」を書き添えられ、
 また夢のお告げで改めた名を記してくださった。
『選択集』は九条兼実公の要請で撰述された浄土真宗の真髄の書物である。
 その書写や真影の図画を許されるのは極めて稀で、専念正業の徳であり、決定往生の徴だと、たいへんな喜びである。

ということになる。

 この前に法難の流罪に厳しいお言葉があるのだが、ご自分のことを自らは語られていない親鸞様も、法然様との関係性のところだけは詳しく記述されている。その背景にあるのは、正しい仏法、念仏の教え、そしてそれを説かれた法然様が、不当にも弾圧されたことへの悲しみ、怒り。さらに、明恵上人からの『選択集』への批判に対する反駁が、本書(教行証文類)の撰集の一つの目的にあることは、この文脈からも推察されるように思われる。すなわち、法然聖人との出遇いは、阿弥陀如来との出遇いなのであって、その法然様から『選択集』を授かった喜びと同時に、それが不当に弾圧されるということに対して、どんなことがあっても真実の声を上げずにおれなかった親鸞様の魂の叫びの本源がここにあるといえるのではないだろうか。

 

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観劇『メリーさんの羊』

 今、連れ合いには他に旦那さんが二人もいる。
 もちろん舞台上のことである。

 お一人は、わが家では「ガッパ」と呼ばれているベテラン男優の方。別にガッパに似ているからではない。大怪獣ガッパの映画での重要な役どころで、唯一、ガッパとは会話できる原住民役で出演されていたからだ。

 もうお一人が、俳優座の加藤頼さん。一昨年逝去された加藤剛さんのお子さまである。1月にもオンラインで観劇させてもらっている。

 その頼さんが下北沢での公演に出られる。それがコロナ禍で、観客も入れられるが、一部はオンラインで配信されたので、観劇することができた。

 劇作家、別役実名作『メリーさんの羊』 である。別役実の名前を聞くのはほんとうに久しぶりだった。大学1、2年生の時、学園祭での演劇部の作品を観て以来なので、実に40年ぶりか。

Merrey

 ほとんどが駅長と列車に乗り遅れた男の対話劇ですすむ。前半は、かなりとぼけた味わいのあるコメディ風で進んでいる。大笑いすることはないか、たまにクスッとした感じで、このままなんとなくかみ合っているようで、かみ合わない、行きつ戻りつするような会話が続き、このまま何事もなく終わっていくのかなと思っていたら、終盤に来て、知らない間にシリアスな展開になり、いつのまにか引き込まれてみていた。

 そして最後。駅長の奥様が登場してきてこれまでの二人芝居の意味がさらに鮮明となってくる。

 なーるほど、そういうことか。ちょっとゾクゾクとするよう結末。とてもよかったです。

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『善き知識を求めて』「信後の悩み」

『善き知識を求めて』も、「信後の悩み」篇に入ってきた。前半は、『仏敵』に至るまでの幼少期からの宗教的心情などが綴られて、学生時代、そして野口道場での5日間の求道の様子は『仏敵』に重複するので、その要点のみが簡潔に語られていく。その意味では本書の本領はここからだ。『仏敵』の続編であると共に、今、私たちひとりひとりの信の有り様、特に情的にも、知的にも「何かを獲た」という幻想を捨てたと、真の聴聞が始まるのだというご教示は、とても重要である。今、ご法を喜んでいるという方でも、ここのところで分かち合える人がどれほどおられるのだろか。

 光明水流の不可思議な体験を破り捨て、善友の勧めによって縁他力から因他力へ、本願の実機が知れた、他力金剛信に徹した先には、不思議な霊感があたのだが、その激しい感激時代は3ケ月ほどで過ぎ去ってから、いわば去勢された馬のように腑抜けた状態になったという。

「後生の不安もない。信仰に対する悩みもない。馬ふるれば馬を斬り、人ふるれば人を斬るという切実な求道心もない。現代の心は如何?と問い詰めされると、ただ広い伽藍堂の中に、自分一人がぼかんと座っているようで、これといって不服もないが、何となく寂寥を覚える。いわば信仰生活に対する緊張味が足りない。…」

 そして、何となく野口道場の同行集と会っていても面白くない。中には、「その信心でダメだ」と陰口をいうのもいる。すっかり面目を失くして、気が引けてなんとなく疎遠となっていく…。

 というまったく率直な告白である。

 もちろん、今日でも、よく似た声を耳にすることがある。だいだいが、心境の変化を後生大事に護っている(護らずにおれない?)方に多いのだが、以前のような不安もなく、求めねばいとう力みもない。以前のような聞法に勤しむ心もなく、なんとなく今生事に流されていっても、なんともない。あの時に、このような不思議があったのは確かだが、一体、自分を何を聞いてきたのか。そしてなんとなく法座に足が遠のいたり、もう少し易しい場で聴聞に勤しんだりと、結局、守りに入って逃げていくのである。

 が、伊藤先生は、そうはならなかった。いや、そうは問屋が卸してくれなかったのである。(続く)

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