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修正会~伝わりずらかった法話~

 新型コロナの感染拡大で、一層の自粛が求められる中での、修正会。参詣は多いのか少なくなるのか、読めなかった。遠方からのお参りはないだろうが、帰省がなくなったので「お参りします」という声も聞いていた。

 蓋を開けてみて、普段お参りされている京都や大阪、奈良の方が中心で、そこに名古屋や福井から加わる方があって、例年よりはほんの少し少ない程度で、それなりに賑やかになった。加えてZOOMからの参加者がある。カルフォルニア同人の方も加わり、福岡に、広島、東京や神奈川などの関東組に、東海や日高の同人が加わってくださる。

 正信偈をお勤めして「現世利益和讃」を華光節でいただく。「初めて現世利益和讃をいただきました」という方もあった。元日に、皆さんで、勤行するだけでも背筋が延びる思いがする。

 法話はちょっとまずかった。正月早々、小難しい話となったのには、伏線がある。年末30日に、別件で寄った本屋で、『来談者のための治療的面接とは』~心理臨床の「質」と公認資格を考える~という本をたまたま手にした。権威やに対して批判の態度、そして「終わりに」(1、ある迷い)の部分を読んで、呼応するものがあったからだ。

 幼少期の宗教的経験を少しだけ綴っておられる。それが本論の底の底に揺らいでいるのが、その宗教的な願いの心性であること。そして幼少期の宗教的経験、ないし宗教的体験は、ぼく自身が受けてときた宗教的経験をなぞられる(従兄弟なのである程度は当然だが)ようであること。そしてその後の人生において、「世間虚仮、唯仏是真」という真実に出会い、世間の出来事を俯瞰的に見ることができるようになり、今生事は空言、戯言で、まことはないのであるが、それを空言、戯言として過ごそうとは思えず、それだからこそ真実を求めてやまない願いが、心理臨床家の道(ここは違うが)を選ぶきっかけとなったこと。そして自分がはっきりとしたことによって、自分の考えを明確にすれば、他者や社会との摩擦も強くなるのだが、それは自立的に生きる対価として当然であって、その摩擦を丁寧に生きていくのかにあるのだと言及されているのである。

 本当は、別の話題があって、著述は簡単に紹介する程度でいたが、正信偈の最中に思い返して、この文章を紹介から法話を始めてしまった。もう少し温めて、法話の教案として伝える工夫が必要であったと思った。ただ、今、僕自身の心象を話すという点では、偽りのないところである。たとえ軋轢があっても、批判があっても、また世間には不都合な真実であっても、己が聞かせてもらい、喜ばせてもらっているところを、歪めずにお伝えしていきたいのである。ただ今日の教界にあっては、そんな当たり前のことすら難しいのも事実ではある。

 ともかく、年頭にあたって、分かりづらい決意表明のような内容の法話でした。

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