緊急事態宣言下の東海支部法座
名古屋市金山での東海支部法座。緊急事態発令中だが、会場の使用許可が出て定員の範囲の中で、精一杯、皆様が集まってくださった。
まだ報恩講の余韻が、からだの中に残っている。ご満座の法話は力が入った。が同時に信仰座談会では、伝えることの難しさ、聞くことの難しさを体感させられる場面にも出会った。それで「難信の法」をテーマにした。
『大無量寿経』も『阿弥陀経』も、この経(そこに説かれたご本願)を信じることがいかに難(かた)いかというご説法で終わっているのである。それを受けられた親鸞様も、たとえばお正信偈の依経段の最後を
「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯」
と結ばれているのが、最後の一句には三つも難という字が使われている。
では、信楽を聞き開くことがたいへん難しいと言われる「邪見・驕慢・悪衆生」とは誰を指すのか。またどんな心境を指して下さっているのか。この文の文面だけみれば、「邪見驕慢悪衆生」では仏法が聞けないということである。それでは困るという人は、「難しい」と歎きながら、ますます邪見や驕慢を募らせてはいないか。
それで結局、己の間違いを聞かずにますます己の「正しい」(だいたいが世間の常識的な見解)考えに固執したり、また愚かで力なしの悪人であるにも関わらす、その自分を変えられる、何かが出来るとうぬぼれて頑張っていく。正しく自分を修正すれば仏法が聞ける人になる。それが聞法だと錯覚しておられるのである。
結局のところ、「邪見驕慢悪衆生」の自己とは聞いていないから、それが糺せるという邪見に陥り、驕慢で自惚れていくのだろう。決して、「邪見驕慢悪衆生」を自らの力でその誤りを糺していく道ではないのだ。むしろ「邪見驕慢悪衆生」の己を教えて頂くのである。絶対に仏法を聞き開けない自分だと聞かせていただくのであるが、これがとても難しいのである。
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