底下の凡愚
報恩講の法話は、二席担当した。
「浄土宗の人は、愚者になりて往生す」
親鸞聖人のご恩徳に報いるのであるから、ぜひとも、聖人の「愚禿のお心」を頂きたかった。
本願のこころを窺うと凡夫の上の善悪の沙汰は問題にならず、極重悪人こそがお目当てである。皆さんも充分承知されていて、求道の指針として、、罪悪観、自己の悪人の自覚を問い、なんとか「地獄行き」を実感しよう(分かろうが分かるまいが地獄真向きなのだが)と力んでおられる方も多い。
だが本願は善悪だけではなく、智愚もまったく問題にされていない。愚者こそがお目当てなのである。
ところが、聞法で善人になろうとしない人も、なぜか賢者になろうとする傾向が強い。最近も、すこしご無沙汰の方から仏教学院で学びだされたとの知らせをいただいた。また「これまで偏った仏教知識しかなかったので、正しい知識を得る為に聞いている」と言われる方もあった。「何もしないの無気力なので、聖典を読むのはいいですか」という問いも、よくある。確かに普通に考えれば、いろいろな知識を得る、それも正しい知識を得ることは聞法の上でも役立つと考えるのだろう。
しかし、本願の上ではそれはまったく方向違いなのである。なぜなら、凡夫の学びは、自己を問うものではなく、自分の上に知識や教えを取り込んでいこう、身につけていこうとするからだ。教学の試験でもあれば、頑張るのもそのためだ。そして理解が進めば進むほど、分かれば分かるほど、ご信心に近くなったとうぬぼれていく。まさにこの世のものさしである段階的習得法で、信心も分かると錯覚しているのである。
万が一、「自己を問うために学ぶ」だという人でも、懈怠な自分を自分で叱咤激励して、一層努力して聞法に勤しもうという方向にしか働いていかない。
皆さん、すごく努力家、頑張り屋さんなのである。研究や修学が目的ならばそれもいいだろう。しかし、弥陀の本願にぶちあたりたいのなら、百害あって一利なし。求道の邪魔にしかならない。
「自力を捨てよ」。
つまり、手も足も口も出すなー。
でも、これでは頼りないのだなー。だから絶対に何かせずにおれない。その時、教えを学び身につけることこそ意味があって、正しいことだと、自力を募らせていくのだ。
誰も、底下の凡愚のわたしにかけられた本願の叫びを聞かないのである。
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