福岡家庭法座~未熟さを知らされる~
今月は、京都、名古屋、福岡と緊急事態発令中の府県での法座が続いたが、ほんとうの少人数での懇親会もあり充実していた。
コロナ禍の中で法座を開くかどうかは、施主の思い入れによるところが大きくなっている。それは、参加される皆さんのところでも同じである。もちろん、個々の置かれている事情で左右される。年齢、地域、職業、家族構成等々で、参加したくても参加できない方もあるのもよく分かる。改めて不要・不急とは何か。リモートでも代用できることは何か。法座を開く意味がこれほど問われることはなかったと思う。
年2度ある、福岡で家庭法座。施主の法座に対する態度はハッキリされている。それでも今回は熊本や大分からの参加はなく、福岡在住の方のみ。それもご家族や事務所、仕事関係の方が大半で、ほんとうの意味での家庭法座であった。20代、30代、40代の方が中心で、ずいぶん平均年齢が低くなっていた。
初日は会計事務所での法話の後、夕方からは懇親会。Y先生宅に泊めていただき、翌日はご自宅でのご法座。朝はY先生、そして午後から最後の法話という流れは変わらなかった。
最後の座談会。言葉にとらわれて心境が膠着していると感じた方があったので、最後の30分でサイコドラマ型のロールプレイン(脚本はなく、役割を演じ、その時の思いで率直な発言を行う)を提案した。流れの中で生まれてきた感じを大切にしたこともあって、予想(つまり、はからい)外の展開となって、教えられるところが大であった。残念ながらそれを語ることはできないが、気づかさせていただくことがおおかった。
ロール(役割)とか、ドラマというと、芝居がかって「ウソ」だと考えがちだが、それはまったく反対だという気がした。なぜなら、普段の言葉が、何も真実を語ってるとは限らないからだ。むしろ、自己の深いところの声とは違うことで話すしていることが多いからである。別に意図して「ウソ」ついているではないが、自分の内なる声なのか、世間やそ場の空気の声を代弁して、無意識に、もしくは意図的にも、自分の内なる声を無視してはいないか。特に法座の座談会の場合は、その場の空気に流されることも多いし、どことなく正解を探して答えておられる方もおおいような気がするのだ。それが逆に、役割を演じることで、その生の声が逆に聴こえ、リアルに伝わってくるということがあったのだ。
しかも二人で対峙してもらうワークだったので、お二人(AさんとBさん)の言葉や態度が化学反応を起して、余計に伝わりずらかったAさんの生々しい声が、ドーンと届いてきたのである。
同時に、自らの鈍感さも恥じ入った。Aさんが、常々、淡々と機械的語っておられた、態度やニアンスがどちらかという無機質な感じがして切迫したリアリティーを感じ取れなかったのだ。でもそれは実は逆だった。ほんとうに切迫して苦しいからこそ、あえてそのような態度や言質になっていたことが、今回よく知らされた。少しは語られる言葉ではなく、その人の態度やニアンスが少しは聞けるようになった思っていたのだが、やはりまだまだ未熟な自分を知らされた。
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