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2021年1月の16件の記事

福岡家庭法座~未熟さを知らされる~

 今月は、京都、名古屋、福岡と緊急事態発令中の府県での法座が続いたが、ほんとうの少人数での懇親会もあり充実していた。
 コロナ禍の中で法座を開くかどうかは、施主の思い入れによるところが大きくなっている。それは、参加される皆さんのところでも同じである。もちろん、個々の置かれている事情で左右される。年齢、地域、職業、家族構成等々で、参加したくても参加できない方もあるのもよく分かる。改めて不要・不急とは何か。リモートでも代用できることは何か。法座を開く意味がこれほど問われることはなかったと思う。

 年2度ある、福岡で家庭法座。施主の法座に対する態度はハッキリされている。それでも今回は熊本や大分からの参加はなく、福岡在住の方のみ。それもご家族や事務所、仕事関係の方が大半で、ほんとうの意味での家庭法座であった。20代、30代、40代の方が中心で、ずいぶん平均年齢が低くなっていた。

 初日は会計事務所での法話の後、夕方からは懇親会。Y先生宅に泊めていただき、翌日はご自宅でのご法座。朝はY先生、そして午後から最後の法話という流れは変わらなかった。

 最後の座談会。言葉にとらわれて心境が膠着していると感じた方があったので、最後の30分でサイコドラマ型のロールプレイン(脚本はなく、役割を演じ、その時の思いで率直な発言を行う)を提案した。流れの中で生まれてきた感じを大切にしたこともあって、予想(つまり、はからい)外の展開となって、教えられるところが大であった。残念ながらそれを語ることはできないが、気づかさせていただくことがおおかった。

 ロール(役割)とか、ドラマというと、芝居がかって「ウソ」だと考えがちだが、それはまったく反対だという気がした。なぜなら、普段の言葉が、何も真実を語ってるとは限らないからだ。むしろ、自己の深いところの声とは違うことで話すしていることが多いからである。別に意図して「ウソ」ついているではないが、自分の内なる声なのか、世間やそ場の空気の声を代弁して、無意識に、もしくは意図的にも、自分の内なる声を無視してはいないか。特に法座の座談会の場合は、その場の空気に流されることも多いし、どことなく正解を探して答えておられる方もおおいような気がするのだ。それが逆に、役割を演じることで、その生の声が逆に聴こえ、リアルに伝わってくるということがあったのだ。

 しかも二人で対峙してもらうワークだったので、お二人(AさんとBさん)の言葉や態度が化学反応を起して、余計に伝わりずらかったAさんの生々しい声が、ドーンと届いてきたのである。
 同時に、自らの鈍感さも恥じ入った。Aさんが、常々、淡々と機械的語っておられた、態度やニアンスがどちらかという無機質な感じがして切迫したリアリティーを感じ取れなかったのだ。でもそれは実は逆だった。ほんとうに切迫して苦しいからこそ、あえてそのような態度や言質になっていたことが、今回よく知らされた。少しは語られる言葉ではなく、その人の態度やニアンスが少しは聞けるようになった思っていたのだが、やはりまだまだ未熟な自分を知らされた。

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『御伝鈔』(5)第四段~「蓮位夢想」(4)~聖人84歳の起こったこと



 最後にこの八十四歳前後の出来事を、テキスト(P72)を参照しながら頂いた。

 蓮位房の建長八年(康永元年に改元・聖人八十四歳)の二月九日の寅の時の夢告

 同年五月二十九日に、聖人は長男善鸞房を義絶。性信房に書状を送る。

 同年『如来二種回向文』、翌年『一念多念証文』『聖徳太子奉讃』(百十四首)

 八十六歳で『正像末和讃』の完成と、精力的に著述を現わされる。『正像末和讃』の冒頭「夢告讃」には、

「康元二歳丁巳二月九日夜、寅時、夢に告げてくわく」。
  弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな
  摂取不捨の利益にして 無上覚をばさとるなり

 蓮位房の夢からまる1年後、時間も日時も同じ、二月九日の寅(十日の暁)の夢告から始まるのである。
 
 八十四歳には、ご長男を義絶という晩年の悲劇、大事件がおこっている。しかし『御伝鈔』ではその点には触れておられず、その3ケ月前の出来事が掲載されている。そこでは、親鸞聖人が阿弥陀如来の化身であるというのであるが、現実に起こっていたのは、凡夫として悲哀であり、また親子の血を絶ってまでも法を護られた苦悩である。しかしこそから精力的な著述か都度は続き、その1年後の聖人の夢告から、悲嘆述懐和讃に代表されるような厳しい自己内省も含めた『正像末和讃』が完成されていくことを合せて頂くと、法の持つ凄まじさを味わい深く頂くことができる。

 追加された短い章で、また親鸞聖人の行状には馴染まないイメージがあったが、蓮位房の活躍や、八十四歳頃の聖人の現実を合せて考えてみると、とても深い意味合いがあることに気づかれれて、とうも尊かった。南無阿弥陀仏。

 次回、2月7日(日)13時30分~17時

 第五段「選択附属」の段。いよいよ法然門下時代のご活躍の様子が続きます。

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 『御伝鈔』(5)第四段~「蓮位夢想」(3)蓮位房は凄い!

 ところで、この段の主役である、釋蓮位(?~1278)とはどんな方であったか。
 常陸(現茨城県)下妻の人ともいわれているが、「親鸞聖人門侶交名牒」には、「洛中居住弟子」(京都在住の門弟)の八名の中の一人。聖人の晩年に常随された方で、聖人と関東の門弟との往復書簡などの取次も務めている(『御消息集』767頁など)。 また『教行信証』坂東本の表紙(証巻、真仏土巻)左下部には、聖人の直筆で、「釋蓮位」との袖書が残るなど、聖人の晩年にもっとも信頼されていた門弟であったことは間違いでない。
 覚如上人の『口伝鈔』でも、第六章(880頁)と第十三章(895頁)にも記されており、十三章は第四段と同一エピソードがある。その『口伝鈔』では源頼政(源三位入道1104~1180))の孫とあり、一説では俗名を「兵庫頭宗重」といわれた。また後世、本願寺が門跡寺院となったおりに、坊官(門跡家の家司、いわば執事。妻帯し、僧衣を着し帯刀する)を、明治初年まで務めた下間家の祖とも言われるほど重要な門弟のお一人なのである。

 講義では、『御消息集』に収めれている蓮位房の添書を現代語訳で拝読させて頂いたが、ご自分ではなかなか私的なことを語られない親鸞聖人が、門弟のご往生に関して、涙を流されていたなどというお人柄が伝わるお手紙で、有り難かった。

 

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『御伝鈔』(5)第四段~「蓮位夢想」(2)~夢告の持つ意味

その夢告の文は、

「敬礼大慈阿弥陀仏  「大慈の阿弥陀仏を敬礼したてまつる。
 為妙教流通来生者   妙教を流通せんがために来生するは、
 五濁悪時悪世界中   五濁悪時・悪世界の中において、
 決定即得無上覚也」  決定してすなわち無上覚を得しめんとなり」

 意訳すると、「謹んで、大慈悲の阿弥陀様を敬い拝みたてまつります。阿弥陀様が親鸞様の姿をとって、尊い念仏の教えを伝えるためにこの世にお出ましになったのは、この五濁の汚れ濁りに満ち満ちた悪世界の人々を、お念仏のみ教えによって必ず必ず最高のさとりを得させようというためであります」ということになる。

 その夢告の文は、親鸞聖人の『尊号真像銘文』(「皇太子聖徳御銘文」659~661頁)に原型があるといってもいい。

「敬礼救世 大慈観音菩薩「救世大慈観音菩薩を敬礼したてまつる
 妙教流通 東方日本国    妙教を東方日本国に流通し、
 四十九歳 伝灯演説」  四十九歳、灯を伝えて演説したまふ」

 これは、百済(古代の朝鮮半島の国)から聖明王の勅使として、金銅の救世観世音菩薩像をもって来朝した阿佐太子が、聖徳太子との謁見した時に礼拝し述べられた言葉で、親鸞聖人は『上宮太子御記』を引用されて、聖徳太子の本地は観音菩薩であって、妙教を東方の日本に伝道するために、聖徳太子と現われて、四十九歳(ご往生)まで、法灯をお伝えになり続けたのだと頂かれている。

 聖人の代理としてお手紙を書かれたり、『教行信証』を与えられるほどの蓮位房ならば、既にこの御文は知っておられただろう。今日の考えでは、それが夢として潜在意識に現れたのだろうが、当時の方にとって霊夢は現実よりも宗教的に大きな意味があり、聖徳太子から直接授かった言葉は深く重い意味あいがあったと思われる。

 『御伝鈔』の十五段のうち、上巻「3六角夢想」「4蓮位夢想」「8入西観察(定禅夢想)」、下巻「4箱根霊告」「5熊野霊告」と、夢告が大切な意味を持つ段が、5つもある。他の例をあげれば、法然聖人も善導大師との夢中で出会い、親鸞聖人も夢告についての記載がある。恵信尼公のお手紙(六角夢想・811頁、下妻夢想・812頁、寛喜の懺悔・815頁)には、聖人の生涯の転機となる場面で夢が現われている。当時の人々にとっては、現実世界での出来事以上に、深い宗教的な意味を持っていたことが窺えるが、お祖師方も例外ではなかった。

 ちなみに、『御伝鈔』に先行した『口伝鈔』第十三章(895頁)には、同一エピソードが掲載されるが、『口伝鈔』では前章(十二章)には、恵信尼公の下妻夢想の章が置かれる。恵信尼公が、「法然聖人は大勢至菩薩の化身」であるのに対して「親鸞聖人は観世音菩薩の化身」という夢を見れたことが示される。それに続け本章では、聖人は観世音菩薩の化身であると同時に、「本師阿弥陀仏の化身である」ことが強調されている。その両者を統合するために「弥陀観音一体異名」説があげれらていく。

 

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『御伝鈔』(5)第四段~「蓮位夢想」(1)~

 第四段「蓮位夢想」の大意は、建長八年(聖人八十四歳・一二五六年。後に康元元年と改元)の時、常随の門弟・蓮位房が、聖徳太子が親鸞聖人を礼拝し、文を告げられる夢告を感得される。それで覚如上人は、親鸞聖人が阿弥陀如来の化身であることは明らかだと述べられている。

 覚如上人の晩年(七十四歳のとき。二十六歳で著述から四十八年も経過)に追加増補されていた段であり、十五段中もっとも短文(百文字程度)。覚如上人六十二歳の報恩講のご法語をまとめられた『口伝鈔』第十三章「蓮位夢想」が、同内容で先行することから、覚如上人は晩年にこのエピソードを知られたと考えられている。

 『御伝鈔』は、第一段で誕生から出家剃髪(九歳)、比叡山での修行、第二段で吉水入室(二十九歳)、第三段で六角夢想(三十一歳)、第五段以下は、法然門下での出来事(三十二歳~三十四歳)と続く中で、第四段では八十四歳の最晩年のエピソードが追加挿入されている。これは、第三段「六角夢想」が、聖徳太子は観音菩薩の化身(法然聖人は勢至菩薩の化身)であり、その観音菩薩(聖徳太子)から東方の群衆に教化を託される聖人の夢告であったことに関連であろう。東方の群衆への弥陀の本願を教化を遂げられたことに対して、今度は聖徳太子(観音菩薩)が、親鸞聖人を阿弥陀如来の化身だと礼拝される門弟の夢告を連続掲載して、観音菩薩(聖徳太子)を拝んまられた親鸞聖人であってが、実は阿弥陀様の化身であることを示す役割があったと考えられている。(続く)

 

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緊急事態宣言下の東海支部法座

 名古屋市金山での東海支部法座。緊急事態発令中だが、会場の使用許可が出て定員の範囲の中で、精一杯、皆様が集まってくださった。

 まだ報恩講の余韻が、からだの中に残っている。ご満座の法話は力が入った。が同時に信仰座談会では、伝えることの難しさ、聞くことの難しさを体感させられる場面にも出会った。それで「難信の法」をテーマにした。

 『大無量寿経』も『阿弥陀経』も、この経(そこに説かれたご本願)を信じることがいかに難(かた)いかというご説法で終わっているのである。それを受けられた親鸞様も、たとえばお正信偈の依経段の最後を

「弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」

と結ばれているのが、最後の一句には三つも難という字が使われている。

 では、信楽を聞き開くことがたいへん難しいと言われる「邪見・驕慢・悪衆生」とは誰を指すのか。またどんな心境を指して下さっているのか。この文の文面だけみれば、「邪見驕慢悪衆生」では仏法が聞けないということである。それでは困るという人は、「難しい」と歎きながら、ますます邪見や驕慢を募らせてはいないか。

 それで結局、己の間違いを聞かずにますます己の「正しい」(だいたいが世間の常識的な見解)考えに固執したり、また愚かで力なしの悪人であるにも関わらす、その自分を変えられる、何かが出来るとうぬぼれて頑張っていく。正しく自分を修正すれば仏法が聞ける人になる。それが聞法だと錯覚しておられるのである。

 結局のところ、「邪見驕慢悪衆生」の自己とは聞いていないから、それが糺せるという邪見に陥り、驕慢で自惚れていくのだろう。決して、「邪見驕慢悪衆生」を自らの力でその誤りを糺していく道ではないのだ。むしろ「邪見驕慢悪衆生」の己を教えて頂くのである。絶対に仏法を聞き開けない自分だと聞かせていただくのであるが、これがとても難しいのである。

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底下の凡愚

 報恩講の法話は、二席担当した。

 「浄土宗の人は、愚者になりて往生す」

 親鸞聖人のご恩徳に報いるのであるから、ぜひとも、聖人の「愚禿のお心」を頂きたかった。

 本願のこころを窺うと凡夫の上の善悪の沙汰は問題にならず、極重悪人こそがお目当てである。皆さんも充分承知されていて、求道の指針として、、罪悪観、自己の悪人の自覚を問い、なんとか「地獄行き」を実感しよう(分かろうが分かるまいが地獄真向きなのだが)と力んでおられる方も多い。

 だが本願は善悪だけではなく、智愚もまったく問題にされていない。愚者こそがお目当てなのである。

 ところが、聞法で善人になろうとしない人も、なぜか賢者になろうとする傾向が強い。最近も、すこしご無沙汰の方から仏教学院で学びだされたとの知らせをいただいた。また「これまで偏った仏教知識しかなかったので、正しい知識を得る為に聞いている」と言われる方もあった。「何もしないの無気力なので、聖典を読むのはいいですか」という問いも、よくある。確かに普通に考えれば、いろいろな知識を得る、それも正しい知識を得ることは聞法の上でも役立つと考えるのだろう。
 
 しかし、本願の上ではそれはまったく方向違いなのである。なぜなら、凡夫の学びは、自己を問うものではなく、自分の上に知識や教えを取り込んでいこう、身につけていこうとするからだ。教学の試験でもあれば、頑張るのもそのためだ。そして理解が進めば進むほど、分かれば分かるほど、ご信心に近くなったとうぬぼれていく。まさにこの世のものさしである段階的習得法で、信心も分かると錯覚しているのである。

 万が一、「自己を問うために学ぶ」だという人でも、懈怠な自分を自分で叱咤激励して、一層努力して聞法に勤しもうという方向にしか働いていかない。

 皆さん、すごく努力家、頑張り屋さんなのである。研究や修学が目的ならばそれもいいだろう。しかし、弥陀の本願にぶちあたりたいのなら、百害あって一利なし。求道の邪魔にしかならない。

 「自力を捨てよ」。

 つまり、手も足も口も出すなー。

 でも、これでは頼りないのだなー。だから絶対に何かせずにおれない。その時、教えを学び身につけることこそ意味があって、正しいことだと、自力を募らせていくのだ。

 誰も、底下の凡愚のわたしにかけられた本願の叫びを聞かないのである。
 

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『御伝鈔』拝読に初挑戦

 緊急事態宣言の中での報恩講。密にならないように細心の注意を払う。定員を厳守し、法中も、講師もお1名の方にみで臨んだ。法話も2席ずつ交互に行う。信仰座談会も各部屋に定員を設けた。昨年の報恩講の時、今のコロナ騷動は予想だにしていなかったのである。

 さて、法話や座談はもちろん、報恩講は勤行もとても大切である。例年、勤式で学んだご法中がリードくださるが、今回はそれもなし。というわけで、法話検討よりも、勤行の練習の時間割いた。「大師影供作法」は、頌讃、画讃、乙回向が加わる。頌讃は導師の独吟、問題は画讃で、なかなか揃わない。乙回向も、皆さんも大声で普段の節をあげられるので、最後はおかしなことになってしまう。法中は二人だけだったが、

 なによりも、今回は『御伝鈔』拝読に初挑戦した。初めてなのには、それなりの理由がある。旧華光会館では、報恩講のお逮夜(ご命日前の夜座)には、上巻・下巻を隔年事に勤められていた。担当は、父か、勤式で学んだ人だった。また法話の後で、お善哉を振る舞っていた。台所は、同時にあんかの豆炭の用意もあり、大忙しだった。それが、法座に専念していただこうと、新会館移行の前ころからお善哉はなくなった。さらに、『御伝鈔』から蓮如上人の『御俗姓』として、夜座でも信仰座談会を行うことになったのである。30年以上前のことである。結果、拝読することはなかった。

 それが、昨年9月の聖典講座から『御伝鈔』を取り上げている。これがまた有り難く、面白い。「御絵伝」も一緒に頂いてる。

 というわけで、これまで済んで上段の第4段までをいただくことにした。久々に緊張したが、時間をかけて準備をしたかいがあってか、大きなミスをすることもなく、終えたのはよかった。

「けっこう練習されたのではないですか」と僧侶の方に言われた。「ハイ、そのとおり」。

「なるほど、それポク聴こえましたよ」と。

 まあ、それでよしということである。

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報恩講 行います

 人事のように思っていたら、大阪や兵庫に歩調合せ京都でも緊急事態宣言が発令された。政府は、様子見で決定を延ばす予定だっだか、世論の批判に押された形で早まった。

 週末の報恩講が迫っている。でも今回の開催には迷いはなかった。中途半端な気持ちで諮ると、間違いなく中止に傾くので、それはやめた。開催の方向で万全の準備を進めていくことをお伝えする。もちろん反対の声もあることも覚悟の上だ。それでもご講師の辞退やキャンセルも出ている。不安な方は、役員や世話役であっても、けっして無理はしてもらわなくてもいいことを伝えている。

 たとえ少人数になっても親鸞聖人のご恩徳を偲ぶ報恩講は開きたい。ご恩知らずであり、日頃は逃げることばかり考えている凡夫だが、後生の一大事が、あらためて不要・不急かと考えさせれている。

 この時期にご参詣くださる皆さんも、それぞれが覚悟を決めて臨んでくださるだろう。どこまでもいい加減な凡夫同士ではあるが、法の元に集い念仏の溢れる法座になってほしいと願うばかりだ。

 合わせてZOOMでも発信していますので、ご利用ください。

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釈迦内棺唄~手作り劇場~

 緊急事態宣言下、連れ合いが東京の舞台公演に出かけた。緊急事態宣言の発令の直後だっだか、さまざまな対応プランを練りながらの執念の公演である。連れ合いも、2度もPCR検査を受けて臨んだ。ギャラより高い検査代である。しかも文化庁に支援された学校公演なので、関係各所との折衝も大変であっただろうが、なかなかの決断だ。生の舞台に触れてもらいたいという願いがある。もちろん、希望者はリモートでもOKという趣旨も加えられて、関係者としてYou Tubuで配信された舞台を、娘と二人で観ることができた。
 
 これまで異なる演出のバージョンで何度か観てきた演目だが、一人芝居の部分に絡みがあり、役者7名が常に舞台上での一体感が感じられて、とてもよかったと思う。終了後は、生徒たちが真摯な質問をしていたのが驚いた。大人では聞きづらいような質問を生でぶつけるのだが、その答えはとても勉強にあり、芸術のもつ力の根源を少しかいま見た気分で感動した。ただ質問が連れ合いに振られないか、内心ドキドキ、もう一方でニヤニヤと心配もしたのだが、、。

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 ただ来週に予定されていた別の公演は、稽古も公演は延期になった。以前の稽古で出演者から陽性者が出たこともある。芝居を打つのも覚悟がいる時代だ。昨年は、ほとんど休業状態で少しずつ動きだしたかと思ったら、この事態である。お芝居の世界もしばらくはたいへんな状況下が続きそうである。

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1月の『善き知識を求めて』

 1月の「仏書に親しむ会」は、『善き知識を求めて』を読む。中盤に差しかかっている。今年の寒さは厳しい。特に、換気のために窓を定期的に開けるのため、夜の冷気が入ってくる中での法座だ。
「他力金剛心に徹す」、「不思議な霊感」の二節を読む。「他力金剛心に徹す」は、『仏敵』の詳細な部分を端的に述べておられる。

グズグズしている伊藤青年を前に、やえ様が

「あなたは、つまりませんぜ、つまりませんぜ、つまりませんぜ」

と泣かんばかりに、やさしくだが厳しく畳かけ、投げかけられていくのである。

 そして正信偈を勤行、「帰命…」と始まった時に、「本願のおめあての機が知れた」のである。

 そして、その前後の不思議な出来事を振り返られるのが、次ぎの「不思議な霊感」である。

が、そこで「めでたし,めでたし」とならないところが、『仏敵』の続編ともいうべき「善き知識の求めて」の真骨頂である。

 しかし、今日の現状は、「楽になった」とか「力みがなくなった」とか「暖かい」といった感覚、もしくは心理面の変化のレベルをつかまえて、留まっている方が多いのではないか。ほんとうはこれから先の「信後の悩み」の節からが本番であり、またここからがご聴聞の面白いところなである。心境の変化など大切にしていても、また変化していくのである。南無阿弥陀仏

 来月以降が楽しみである。

 

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「ほとけと神々大集合」~岡山の宗教美術の名宝~

 風も強く、雪が舞い、冷え込む。

 母も一緒に、龍谷大学ミュージムの『ほとけと神々大集合』~岡山の宗教美術の名宝~と題した展示。「なぜ、岡山なの?」 まったく仏教美術のイメージがなかったが、岡山県立博物館の改修工事に伴う企画で、おかげでまったく知らなかった岡山の宗教美術に触れられた。岡山は古来、吉備国と呼ばれ、大和や出雲に並ぶ一大勢力地であったという。同時に、美作は、法然聖人の誕生地であり、臨済宗の栄西もまたこの地の生れだという。

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 真言宗(イメージとしては四国や和歌山だが)の勢力が強いのか、第一章は、密教美術、第二章は、神仏習合の美術と題されている。ぼくには、仏教美術の中でも、一番、馴染みのないところ。、曼陀羅も呪術めいて敬遠しがちだ。でも、重要文化財の両界曼陀羅(胎像界と金剛界)がとてもよかった。保存状態がよく彩色も美しく、細やかなところまで見ることができた。後、十二天(入れ替えで6幅ずつ)の図画も、きれいだった。バラモン教の神々が、仏教守護の神々として仏教に取り入れられていくプロセスを学んでいたので、興味をもってみることができた。また、本来、偶像化されない日本の神も、仏教の影響で偶像となるが、男神や女神があるのが面白い。さらには神仏習合された神や仏たちも提示されていた。タイトルは「ほとけと神々、大集合」であるが、「大習合」でもよかったかも、、。

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 2階は常設展示でお馴染みのものが多かったが、企画は3階のワンフロアーのみのだったが、すべて初見で岡山の仏教美術にすこしでも触れられて、予想外によかった。

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成長

 長女がブラジルから帰国して、丸半年が経過した。コロナ禍での帰国はたいへんで心配だった。久々の日本での生活だが、やはり日本に馴染むのは楽だったという。

 生活面でも、料理の腕はなかなかのものである。とても工夫した料理をだしてくれて、連れ合いが出張中も、世話をしてもらえるので、ずいぶん助けられている。趣味のお菓子作りも、リクエストに応えることができるレベルにある。今日も無農薬レモンを使ったシフォンケーキを造ってくれた。

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 大学の入学が早々に決まったこともあって、年末からバイトを始めることになった。食パン(1種類)のみで勝負しているお店だ。負担のない範囲で仕事だが、たとえ1000円でも稼ぐことが簡単ではないことが分かるだろう。お金とは不思議なもので、1000円使うことなどとても簡単なのに、稼ぐとなると大変で、貯めるとなるともっと大変である。

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 元日には着物を着た。しかも自分一人でとてもうまく着付けいた。これもブラジルでのコロナ自粛生活で身につけたものだ。

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 5年の間に、ずいぶんと成長した。いろいろな意味でずいぶんと鍛えられたようだ。

 ご聴聞の上ではどうか? 本人は、後退していると言っているが、仏教は知識や対する熱情も大切だが、まずは自分を知ることが第一だ。そのためには、まずは率直に自己が語れること、そしてよく聞く力を身につけてほしいと願っている。もちろん読む能力や書く(表現する)力もそうであるが、後は、興味さえあれば自ずからついてくる。聞くことは誰でも出来るとか、話すが苦手なのは性格(口下手とか)のせいにして誤魔化しているが、実は聞けていないから話せず、訓練しないから上達もしないのだが、それを実践していく人があまりにも少ない。日々のコミニケーションにおいても、また聞法においても、自己のためにとっても、もっとも大切なツールなのだか、鍛えないのはあまりに勿体ない。

 

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三が日、変わったこと、同じこと

  皆さんも同じだろうが、昨年までとは少し違ったお正月を過ごしている。

 別にお正月には変わりはない。元日は修正会があり、お節やお雑煮を食べ、正月番組も同じだ。

 でも人の流れがやはり違う。

 わが家も、名古屋から姉一家が、年末から2日までの滞在が無くなり、修正会のみの日帰りになった。姉は、嫁いで「ウン十年で初めてだ[と言っていた。元日の夜の外食も中止し、家族4名だけで過ごした。逆に、2日の夕方から北海道に帰省する連れ合いは帰らなかった。いつも大勢が集って賑やかな連れ合いの実家も、今年は来客がないという。義母も、」こんな静かなお正月は嫁いできてから初めてだ」と言っていた。彼の地は年末からの寒波と大雪でたいへんだという。最高気温でも氷点下10度、最低気温は氷点下20度を下回る日もある。家の中はすごく暖かいのだが、屋根の雪が凍てついて雪下ろしもままならないという。いくらこのあたりで、「寒い、寒い」といっても比較にはならない。

 結局、例年とそれほど変わらない正月を過ごした。

 相変わらず映画館に通ったが、2日も、3日も人出は疎らだった。三が日は自粛したのだろう。4日の方が混んでいたか?

 今年の最初は、韓国映画『82年生まれ、キム・ジョン』からスタート。これは、とても繊細で、考えさせられる映画だった。同世代(30~40代)の女性が、育児に、結婚生活、社会進出するなかでの、女性ならでは社会や時代の無言の圧力、抑圧、生きづらさが、身のレベルでの不調という抵抗で現れたさまを、等身大で描いた佳作だった。日本でも大いに共鳴される内容ではないか。よかったです。

 あとは連続して、日米の音楽映画のドキュメンタリー映画をみた。なかなかいいスタートがきれた。

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修正会~伝わりずらかった法話~

 新型コロナの感染拡大で、一層の自粛が求められる中での、修正会。参詣は多いのか少なくなるのか、読めなかった。遠方からのお参りはないだろうが、帰省がなくなったので「お参りします」という声も聞いていた。

 蓋を開けてみて、普段お参りされている京都や大阪、奈良の方が中心で、そこに名古屋や福井から加わる方があって、例年よりはほんの少し少ない程度で、それなりに賑やかになった。加えてZOOMからの参加者がある。カルフォルニア同人の方も加わり、福岡に、広島、東京や神奈川などの関東組に、東海や日高の同人が加わってくださる。

 正信偈をお勤めして「現世利益和讃」を華光節でいただく。「初めて現世利益和讃をいただきました」という方もあった。元日に、皆さんで、勤行するだけでも背筋が延びる思いがする。

 法話はちょっとまずかった。正月早々、小難しい話となったのには、伏線がある。年末30日に、別件で寄った本屋で、『来談者のための治療的面接とは』~心理臨床の「質」と公認資格を考える~という本をたまたま手にした。権威やに対して批判の態度、そして「終わりに」(1、ある迷い)の部分を読んで、呼応するものがあったからだ。

 幼少期の宗教的経験を少しだけ綴っておられる。それが本論の底の底に揺らいでいるのが、その宗教的な願いの心性であること。そして幼少期の宗教的経験、ないし宗教的体験は、ぼく自身が受けてときた宗教的経験をなぞられる(従兄弟なのである程度は当然だが)ようであること。そしてその後の人生において、「世間虚仮、唯仏是真」という真実に出会い、世間の出来事を俯瞰的に見ることができるようになり、今生事は空言、戯言で、まことはないのであるが、それを空言、戯言として過ごそうとは思えず、それだからこそ真実を求めてやまない願いが、心理臨床家の道(ここは違うが)を選ぶきっかけとなったこと。そして自分がはっきりとしたことによって、自分の考えを明確にすれば、他者や社会との摩擦も強くなるのだが、それは自立的に生きる対価として当然であって、その摩擦を丁寧に生きていくのかにあるのだと言及されているのである。

 本当は、別の話題があって、著述は簡単に紹介する程度でいたが、正信偈の最中に思い返して、この文章を紹介から法話を始めてしまった。もう少し温めて、法話の教案として伝える工夫が必要であったと思った。ただ、今、僕自身の心象を話すという点では、偽りのないところである。たとえ軋轢があっても、批判があっても、また世間には不都合な真実であっても、己が聞かせてもらい、喜ばせてもらっているところを、歪めずにお伝えしていきたいのである。ただ今日の教界にあっては、そんな当たり前のことすら難しいのも事実ではある。

 ともかく、年頭にあたって、分かりづらい決意表明のような内容の法話でした。

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恭賀新年

 恭 賀 新 年

 昨年は、たいへんお世話になりました。
 新型コロナのために、布教や法座活動にも支障をきたす一年となりましたが、同人の皆様のご尽力とご協力によって、大半の行事を行うことができました。ほんとうにありがとうございました。
 残念ながら、本年も感染拡大の中でのスタートとなり、今年も法座活動への影響は避けられないとは思います。それでも、虚仮不実の世界にあって、真実を求めて止まない願いを止めることはできません。どうか、本年もよろしくお願いいたします。

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