« 『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」① | トップページ | 智積院の紅葉 »

『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」②

 では、その法然聖人の吉水を訪ねられるまでの経緯はどうか。『御伝鈔』では、なぜか六角堂の参篭は、次の第三段に記されている。ところが、恵信尼公によれば、

「山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに…」

 つまり、後世の助かる縁を求めて、六角堂への百日間の参篭があり、九十五日目の暁に、聖徳太子の示現(神仏の不思議な霊験。夢の御告げ)によって、法然聖人の元を訪ねておられる。

 また『御伝鈔』では直に信心獲得されたと記されるが、六角堂への百日間の参篭同様に、雨の日も晴れ日も、どんな大事8(または大風)も差し置いて、百日間を通い詰められているのである。

 それは、『嘆徳文』も同じで、凡夫の力では分からない出離の縁、善き知識を求めて、比叡山の根本中堂の本尊(薬師如来)や山々の神仏に祈られ、また六角堂(観世音菩薩・聖徳太子)に百日参篭されて、百日目の明け方寅の刻(午前4時頃)御告げをうけ感涙を流し喜び、いよいよ吉水の法然聖人の草庵に足を運ばれて、弥陀の本願を聞かれたと示される。

 当時の法然聖人の行実からみて、東山吉水に草庵を構え布教されていた法然様の名声は、比叡山の親鸞聖人にも届いていただろう。しかし、自力修行に限界、不安を感じながらも、20年間も真摯に励まれた聖道自力修行を捨て、法然聖人の説かれる専修念仏(他力念仏一行)に帰依することは、たいへんな葛藤があったのだ。崇拝されていた和国教主である聖徳太子のご示現が、最後に背中をおされたということであろう。

|

« 『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」① | トップページ | 智積院の紅葉 »

聖典講座」カテゴリの記事