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2020年11月の12件の記事

インド・お釈迦さまの聖跡巡拝の旅

  今年1月末から2月中旬にかけてインド仏跡巡拝の旅に出かけた。

 その後、すぐにコロナの感染拡大により、インド入国ビザが発給停止の入国制限が始まり、観光目的の旅行は完全にストップしてしまった。ほんうとに、ギリギリのタイミングでの巡拝だった。「よくぞ、あのタイミングで行けましたねー」と、参加者の皆さんと感慨深く分かち合っている。

 旅行社のトラベルサライさんからメール。国内聖跡巡拝にお世話なってきた旅行社はコロナの影響で、10月一杯で会社を畳まれた。もしやと思ったが違った。添乗はなくなったが、なんとか踏ん張っているとのこと。用件は、NHKカルチャーで、トラベルサライ社長さんがインド仏跡の講義のZoom案内だった。しかも、今回のインド旅行で現地が添乗されたバンシーさんが、ブッダガヤからライブ中継!

 早速、インド巡拝組に連絡して、華光会館でも少人数の鑑賞会を計画。

 これがとてもよかった。四大仏跡と合せて、釈尊のご一緒を歩ませていただいた。合せて、ジャイナ教のことやヒィンドゥー教のことも写真でみせていただけた。またブッダガからのライブ中継は、特別な許可の元で行われたが、コロナ影響で、あの喧噪の中にあったブッダガヤが嘘のように静まりえっていた。拝観を停止しているという。39年前に静寂なブッダガヤの夕景を経験しているので、なんとなく懐かしい気分にもなった。合せて、成道後、法悦を楽しまれた7箇所で7日間(49日間)の一つ一つも、現地の説明。勉強になりました。

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 終了後、参加者で、インド土産のミルクチャイを飲んで、しばらく歓談。

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華光大会~面白かった企画~

 新型コロナの影響が身近に迫っている中、無事に華光大会を終えて、正直、ホッとした。9月の永代経法要は、4日間の日程での前期・後期制。それを華光大会では3日間の日程での前期と後期制。そのために2日目の昼座が、前期と後期が重なってしまう。道場に一同に会する密を避けるために考えたのが、企画法座の提案だ。これは運営側からの一方的な提示に従ってもらうのではなく、アィデアから、当日の進行、運営を、同人の皆さんにお願いしようというものである。

 運営側としては、密にならずにいかにスムーズにそれぞれの会場に入っていただけるのか。また終了後、前期の方が速やかに帰宅いただき、後期の方のオリエンテーョンを行えるのか。一度、永代経で二部制の法座を経験しているが、一同に会するのは初めてなので、運営委員とは何度も手順や動線の確認を行った。参加者の入口での検温、体調の聞き取り、手の消毒、そして荷物移動してもらい、そのまま各会場に移動という流れだったが、皆さん的確動いてくださり、混乱もなく、とてもスムーズに進んだとが、まずよかった。コロナ禍の状況では安全性が最重要の課題になっている。

 実はこれは以前から温めていた企画案で、4~5の出店方式で、好きな企画、ところに自由に参加してもらおうと思っていたのだが、コロナのおかげで日の目を見ることになった。ただ事前申込制とした。内容的にも、想像以上に面白く、うまくいったのではないか。活気のあるアクティブな法座の内容も評判もよかった。

 個々の感想は、新年号華光誌の特集号を参照いただけばいいので、タイトルと簡単な内容だけを記しておく。
 
企画A 「華光っ子を囲んで」。
車座になって、3名の20代の若い女性の今の心境を聞き、分かち合うという企画。
 
企画B ワークショップ型「阿弥陀さんと私」。
二人組みになって、阿弥陀様(役)に徹底的に言いたいことをいうあう、ロールプレーニング。

企画C 「信心獲得章を徹底的に味わう」
文字通り、ご文章を輪読し、自分のところに引き寄せてに味わう。

企画D 「韓国映画 人間の時間」鑑賞
韓国の鬼才、キム・キドクの問題作、衝撃作を鑑賞して、法蔵菩薩の身を投げされた布施の精神を味わう。

企画E ワークショップ
型「令和版 信行両座を分かつ」
信の座、行の座(未信の座)に自主的に分かれて、向き合い、なぜ、そこに坐ったのかを自分の言葉で語る。また行の座から信の座へ、逆に信の座から行の座に問い合う。
 
 企画Eの冒頭は、ハブニングの緊迫した場面から始まった。まるで仕組まれたお芝居のようで、この流れは不思議としかいいようがなかった。その意味では、結果ではなく、すべてがブロセス(過程)なのだろう。

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華光大会~落ち機~

 前期、後期制ての華光大会。前期と後期でご講師を2名ずつお願いしたが、後期のご講師が当日の体調不良での急きょご欠席。最終日は、連続して法話担当となる。だだ入れ換え制の前・後期制度が幸いして、同じテーマで臨めて助かった。
 前期の最初のご講師が「必ず助ける」とのご本願というご法話だったで、「必ず墜ちるぞ」という腹の据わりのところを話した。助かることで安心するのではなく、墜ちていくところで決定させていただく(機の深信)のが、聖人の腸。そこを前週の『御伝鈔』の法然聖人と親鸞聖人との出会いところで頂いた。
  つまり、法然聖人と親鸞様との出遇いについて、多くを語られない聖人ではあるが、、

「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉(1211年)の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」 

と一言を語られた。この「雑行を棄てて本願に帰す」で、すべてが終わってしまったのである。聖人はこれ以外のことは記述されていない。しかし、その時の心境を身近なお方には常々、語っておられるのである。奥方様である恵信尼公のお手紙では、

「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、『上人(法然)のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば』と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。」(『恵信尼消息』)

 また面授口伝のお弟子である唯円房は、上洛して聖人と向き合った時に,そ口からこぼれ落ちた聖人の自督のお言葉を記録されている。

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」(『歎異鈔』二)

 最後は、聖人の膝下で育った孫の如信上人から聞かれたという覚如上人は

「『源空(法然)があらんところへゆかんとおもはるべし』と、たしかにうけたま はりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。」(『執持鈔』二)

 つまり、後生の助かる縁を求め続けられた親鸞聖人は、六角堂に参籠までして迷いに迷った挙げ句、すべてを捨てて法然聖人の元に参じる覚悟を決められた。それはどんな厳しい自力修行しても、後生に安心ができなかったからだ。しかし法然様から聞かれたのは「必ず助かる」「往生極楽間違いない」という念押しの言葉ではかった。本願に願われていた本当の自分、つまり「地獄一定」の身である真実に出会われたのである。当たり前のことだが、助かることをいくら重ねても、重ねても、重ね続けなければ安心は続かない。しかし、たった一つ「地獄一定」の自分に出会ったならば、それで終わる。聞法とは、ここを聞く以外にないのである。

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誕生日

母の85歳の誕生日。

今年は、外食は控えることにしたが、一階で一緒に食事をした。

もう一つ昨年とは異なるのが、娘も一緒にお祝いできたことだ。この時期に、日本にいるのは6年ぶり。

彼女が、得意のバースディーケーキを造ってくれた。

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 父が亡き後、一層、法座を第一として、自ら一求道者、聞法者として求めて、聞き続ける姿勢を示して続けてくれている。南無阿弥陀仏

 

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『皇室の名宝展』

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 教科書でしか見たことのないお宝が目白押しだった。皇室の御物なので国宝などの指定は受けていない(正倉院の宝物もそうである)が、名宝の数々を堪能することができた。長らく一般に公開される機会が少ないので保管状態がによく、特に「蒙古襲来絵詞」や「小栗判官絵巻」などの絵巻物関係は色鮮やかで、素晴らしかった。

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 今、大河ドラマで坂東玉三郎が演じる正親町天皇の宸翰(しんかん)があったり、親鸞聖人が法然門下におられた時代の展示があったりと、とにかく興味津々。

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 その中でも、伊藤若冲の「旭日鳳凰図」はすごかった。「植物綵絵」は三十幅の超豪華な揃い踏みを観たことがあったが、これは初見。テレビ画面でライブで紹介されていたのを観たが、実物を前にした迫力感は別物。よかったです。

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<庭園も散策↑>
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<閉館間際まで鑑賞↑>

 

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智積院の紅葉

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 国立京都博物館で開催されている『皇室の名宝展』。コロナ感染拡大防止のため、30分刻みで申込む、事前のネット予約が必要だ。この後、華光大会も控えているので、チャンスは今日だけだった。

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 天気もいい。ネット予約して自転車で東大路七条通の博物館へ。行きは、登り坂が厳しいが、思った以上に近くて15分強で到着した。予約時間まで、近くの智積院の紅葉を楽しむことにした。

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 ここは紅葉の穴場なのでよく訪れるのだが、さらにコロナ禍でほとんど観光客はほとんどいなかった。短時間だったが紅葉を堪能することができた。
 快晴の青空下で紅葉も映えたが、11月の20日というのに、少し動くと汗ばむような陽気。こちらは温暖化の影響か?

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<境内や本堂は自由拝観>

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『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」②

 では、その法然聖人の吉水を訪ねられるまでの経緯はどうか。『御伝鈔』では、なぜか六角堂の参篭は、次の第三段に記されている。ところが、恵信尼公によれば、

「山を出でて、六角堂に百日篭らせたまひて後世をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文を結びて、示現にあづからせたまひて候ひければ、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんとたづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日篭らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にもまゐりてありしに…」

 つまり、後世の助かる縁を求めて、六角堂への百日間の参篭があり、九十五日目の暁に、聖徳太子の示現(神仏の不思議な霊験。夢の御告げ)によって、法然聖人の元を訪ねておられる。

 また『御伝鈔』では直に信心獲得されたと記されるが、六角堂への百日間の参篭同様に、雨の日も晴れ日も、どんな大事8(または大風)も差し置いて、百日間を通い詰められているのである。

 それは、『嘆徳文』も同じで、凡夫の力では分からない出離の縁、善き知識を求めて、比叡山の根本中堂の本尊(薬師如来)や山々の神仏に祈られ、また六角堂(観世音菩薩・聖徳太子)に百日参篭されて、百日目の明け方寅の刻(午前4時頃)御告げをうけ感涙を流し喜び、いよいよ吉水の法然聖人の草庵に足を運ばれて、弥陀の本願を聞かれたと示される。

 当時の法然聖人の行実からみて、東山吉水に草庵を構え布教されていた法然様の名声は、比叡山の親鸞聖人にも届いていただろう。しかし、自力修行に限界、不安を感じながらも、20年間も真摯に励まれた聖道自力修行を捨て、法然聖人の説かれる専修念仏(他力念仏一行)に帰依することは、たいへんな葛藤があったのだ。崇拝されていた和国教主である聖徳太子のご示現が、最後に背中をおされたということであろう。

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『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」①

 『御伝鈔』(3)第二段「吉水入室」。

 聖人が二十九歳の時、比叡山を降りられる決意をされ、末法凡夫のための他力易行の浄土の教えを求め、東山吉水の法然聖人を訪ねられる。法然聖人は、浄土真宗の根本の教えを懇切に説かれ、親鸞聖人はたちどこにその深意を領解され、凡夫直入の他力信心を決定されたというのが、大意である。
  短い文章で、語句や表現に難解な問題はないが、何故、二十年間の聖道門での自力修行を捨て比叡山を降りられたのかが、ここでは「隠遁のこころざし」としか触れず、「末法の凡夫には、自力聖道は難行であり、他力浄土こそが易行の大道である」と記されるのみだ。聖人の心の機微は伝わらないので、当時の文章から補ってみた。

 奥方様の恵信尼公が娘(覚信尼公)に宛てたお手紙では、

「この文ぞ、殿の比叡の山に堂僧つとめておはしましけるが、山を出でて、六角堂に百日籠もらせたまひて、後世のこといのりまうさせたまひける、九十五日のあか月の御示現の文なり」

とある。比叡山時代の聖人は、常行三昧堂の堂僧をされていたと記されている。堂僧は、高い地位の僧侶ではなく、栄華とは無関係である。どのような修行であったかは、前回詳しく見ている。
またこのお手紙には、短い箇所に4回も「後世のこと」-つまり後生の一大事が心にかかり悩んでおられたという記述がある。

覚如上人の長男、存覚上人の『嘆徳文』では、

「定水を凝らすといへども識浪しきりに動き、心月を観ずといへども妄雲なほ覆ふ。しかるに一息追がざれば千載に長く往く、なんぞ浮生の交衆を貪りて、いたづらに仮名の修学に疲れん。すべからく勢利を抛ちてただちに出離を稀ふべし」と。

とある。意訳すると、「心を静め、精神統一をする禅定の修行に励んでも、愛欲や名利の煩悩にかき乱されて静まらず、心の本性を見とどける観心の修行しても、妄念の黒雲に覆われて如来を観た奉ることはできない。しかも出る息は入るを待たず、もし泡沫(うたかた)のような浮世の身が、今終わったなら、たちまちに長い迷いの悪道に落ちていかねばならない。にもかかわらず、今生事の修行や勉学に命をすり減らして終わっていいのか。今生事を投げ捨てて直ちに後生の一大事を求めずにおれない」とななる。
 自身の後生の一大事を前に、比叡山での自力修行(観念念仏)が、真摯であればあるほど、真の安らぎがえられず、行き詰まっておらる樣子が窺える。

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大学入試

 長女の大学入試がある。ブラジルでの生活で、通常よりも3年遅れとなった。彼女は日本では高校受験もしていないので、日本での初入試だ。伝道者枠の推薦なので、合格する確立は高いのだが、ブラジルからの受験はレアケースだったようで大学側も部署間で混乱して、入試の1週間前になって、一度、受付けられた書類をめぐり、説明が二転三転。数日前に決着したのだが、受験に加えて、神経をすり減らしていてようだか、どうにかこの日を迎えた。
 車で10分ほどだが、大学まで送迎をすることにした。40年前の思い出が甦る。ぼくも同じように父に送迎してもらったが、正門のところに西光義敞先生が監督役で、塀から顔出して見回しておられたことが思い出される。
 あれから大学の設備もすっかり様変わりして、威圧的な正門に、校舎もほとんどが刷新されている。それでもいくら時代が移りかわっても、受験生の心境は変わらない。そして親心もまた同じであろう。我が親も、こんな気持ちだったのだろう。

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「聖衆来迎寺と盛安寺」展

  家族で、滋賀県大津市の大津市歴史博物館へ。三井寺(園城寺)に隣接する博物館だ。

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   滋賀県は、国宝数では京都、奈良、東京、大阪についで5位。重要文化財を加わると、4位となる文化財の宝庫なのだが、隣接する京都や奈良に比べると、その知名度は低いのが現状だ。でも、都に隣接する近江国は、歴史の最重要な地域で比叡山や三井寺、石山寺などの有名社寺が多数の存在しているのである。その比叡山の麓に坂本の町は、明智光秀のゆかりの地でもあり、彼が最初の所領となり坂本城が造られた。西教寺は、天台真盛宗派の総本山.もある。

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 今回は、明智光秀ゆかりの下坂本の社寺、「聖衆来迎寺と盛安寺」展である。

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 歴史的な書状や文書、経典、絵画などの美術品に、仏画や仏像の多数出ていた。驚いたのは、聖衆来迎寺の宝物の多さである。目玉は、聖衆来迎寺にある国宝の絹本着色六道絵だ。『往生要集』一章「厭離穢土」に示される六道の様相を具象化したもので、のうち、「地獄」は、八大地獄の内、等活、黒縄、衆合、阿鼻の四つを、「人」は、不浄・苦(四苦と八苦)・無常の姿を四幅に描かき、餓鬼、畜生、修羅、天上である。残り3幅のうち2幅は『往生要集』七章「念仏利益」の所説に基づいて、念仏の功徳を解きあかしている。最初の1幅は、『往生要集』にはない閻魔庁の裁きの場面。業鏡(浄玻璃の鏡)の前に、罪人の罪状がすべて映し出されていた。

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<盛安寺の十一面観音像。重要文化財なのに撮影OK>
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 予想以上の充実の内容に堪能させて頂いた。

 

 

 

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充実しすぎの日高支部法座

 ここ数年、日高支部法座が活性化されている。核になる同人のご尽力で、各地からのお同行を受け入れて、充実した内容が続く。ただ地元の方の都合で、会場が転々としたて慌ただしいのも事実。特に今回は顕著で、2日間フル稼働であった。
 早朝、京都を出発。午前中に、同人宅での法供養年忌法要。ご子息は、みな子ども大会でご一緒している。もう40年も以前の話で、今では共に「老いるショック」を感じる中年世代となった。何十年ぶりであっても、共通する話題もあってよかった。もちろん、簡単に仏法の話題までは進まないが、勤行や称名念仏の勧めには素直に応じてくださったのは有り難く、まずは関係作りに務めた。これもまた仏縁である。
 お昼は、豪華な会席とアルコールも頂いたが、これからが本番である。午後は、日高の同人宅での支部法座だ。遠方からの初参加の僧侶の方にお会いしたが、その方のリクエストで「私・ご恩・仏さま」の例の三角形の図をもとにした法話。いつも座談で中心になる方のお話を丁寧に聞かせていただいた。今、彼が引っかかっているテーマ(仏法が表になっているが、実は別にある)が明かになったことがよかった。やはりじっくりと話を聞かせてもらわなければ分からないのである。
 座談を終えて、月忌参りが2軒。そこから、日高町から豊岡駅前のホテルに移りチャックインし、豊岡市の同人宅へと移動。ここがメーン会場だ。夜座は、今、今のぼくの率直な存念を聞いていただいた。皆さんにどこまでご理解いただけのるか分からなかったし、厳密には法話ではなかっかもしれないが、心を開いた表明という意味で、場の信頼ができることが幸せである。感染に配慮しながらも懇親会も持った。座談会で聞けなかった、それぞれの今を、順番に語ってもらった。もちろん発言時はマスク着用である。
 翌朝もT家での家庭法座。少し顔ぶれ変わったが、「四弘誓願」から阿弥陀様の別願である四十八願のお心をお伝えをした。しかし昼座のメーンは、実はランチにあった。ホテルの中にあるレストランで、フレンチのコースをいただいた。皆さん、満足である。法座よりも、食事の感想を述べる人があったのが、面白かった。
 そして、日高町に戻って4回目の支部法座。また顔ぶれが変わる。華光大会への企画に向けて思いを聞いていただく。法座終了後、皆さんは帰路につかれたが、先日亡くなった日高同人宅にお悔やみに向い、他に月忌参りが済んだころには、もうあたりは暗くなっていた。それでも連れ合いに運転してもらえるので、随分助かった。
 京都、大阪、兵庫、滋賀、そして岐阜とさまざまな方がお参りされたが、それぞれが絡み合って、仏法ではないところでも仏法の縁が結ばれようとする機微が有り難かった。厳しい視点もいいが、こんな機微が味わえるようになったことも成長である。

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近況

ブログが停滞している。それは内外ともに騒がしかったということである。

10月末から11月にかけて、連続して法座が続いた。

10月31日(土)昼座は、10月の華光誌輪読法座。誌上法話を読む。前半は、身近な話題で、皆さんにとってはわかりやすかったようだ。今日は、分かりやすさばかり求められる時代がら、仏法はそうはいかない。「分かった」というのが分別智の世界に留まるなら、それはほんとうに分かってことはでないからだ。それでも、もしそれを手がかりにわが身を聞く道を進むならば、それは有り難いことだ。

同日、引き続いて総会に向けた拡大運営委員会を開催。こちらはZOOMでの開催で、北から南まで支部長や運営委員が参集された。コロナ対応で、総会が書面になったので、同人の代表者に、説明をしてまずは承認を頂いた案を、同人に書面送付することになっている。

翌、11月1日(日)、朝、昼と仏教青年大会。1泊2日、鳥取での初開催を楽しみにしていたが、コロナ禍での合宿形式の法座は中止となり、1日だけの大会となった。会館に集まる者は集まり、リモートでの参加者との並催となった。人数だけみれば寂しい。でも過去追いかけてもしかたがない。今、集っている皆さんを大切に進行させていただく。

翌々日の3日は文化の日。再び華光誌輪読法座を開催する。10月からは中2日間だが、今回は11月分の輪読法座。祝日にしたが参加者は少なかった。引き続いて、誌上法話の後半を読み切る。連続した参加者には意味だあったのではない。

祝日を利用して、昼に続いて夜座も開催。仏書に親しむ会。こちらは参加者が増えた。『善き知識を求めて』を読む。

そして、週末は日高支部法座。これが4座の法話も3会場に、別に法供養年忌に月忌参りと続いて、かなりハード。

その間、華光大会や書面開催となった総会の手続きなどが続いてとにかく慌ただしく、ブログが停滞してしまった。その分、感じたこと、味わったことが多い週。特に、ある同人の方からの働きかけで大きな刺激、自己を問うきっかけになった。興奮したり、モヤッとしたり、重いものがあったり、大きな気づきがあったりと、とにかく心が活性化された1週間。

それで、少しクールダウンし、言葉が自然に浮かぶあがってくるのを待っている状態。成熟して発酵を待つのも、大切な時間。

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