『御伝鈔』(2)第一段②~出家得度~
第二節 出家得度
親鸞聖人伝記に、史実もしくは定説と、伝承とが混在して広まっている。
誕生においても、承安三(1173)年に生まれられ、父親は日野有範ということだけが、没後33年目に曾孫の覚如上人の記述である。生誕日、生誕の正確な場所、母親の名、幼名などは、江戸時代にかけて伝承されてきたものである。それによると、
お誕生は「4月1日」(新暦5月21日)であり、その場所は、京都南部の「日野の里」。日野氏の氏寺、法界寺の国宝阿弥陀仏像が、幼き頃の聖人が拝まれた念持仏であると言われて、隣接地に日野誕生院が立っている。また母親は、源氏の流れを汲む「吉光女」と呼ばれて、幼名は、「松若麿」というのが、今日でも広まっている。
また得度の契機として、四歳で父親、八歳で母親を亡くし、無常を理を感じて出家を決意したというのが伝承である。
しかし実際、父親の早くに逝去されたのではなく、その後も生きていたことが本願寺の資料で確認されている。何らかの事情で政変に巻き込まれ隠遁して、姿を隠さざるおえなかったという可能性が指摘されている。聖人の得度の前年、源頼政が、後白河法王の第三王子である以仁王(もちひとおう)を担ぎ、平家討伐の挙兵(1180)するも、宇治平等院での戦いで戦死している。その以仁王の首実験をその学問の師であった聖人の叔父宗業が行ったという。叔父達(父親の兄弟)は後白河院に近く、後白河院も謀叛に関わったのではないかという嫌疑がかけている。日野や里や三室戸は、その宇治平等院の近くでもある。長男の親鸞聖人だけでなく、兄弟たちも全員が出家していること。父親ではなく、父の兄、日野範綱が聖人や兄弟たとの養父として、得度の後見人として付き添っているのことからも、何らかの事情が考えられる。
日野範綱は、後白河上皇の側近で、その当時、従四位、式部大輔、兵庫頭、若狭守などを歴任していた。
得度の師匠は、慈円慈鎮和尚である。慈円僧都(1155~1225)のことで、没後、慈鎮和尚と称されいる。父は、摂政関白、藤原忠通(法性寺殿・1097~1164)で、兄の関白、九条兼実(月輪殿・1149~1207)は、法然上人のバトロンとなるのは有名(『選択集』が書かれる機縁となる)である。慈円僧都は、この後、天台座主に四度もついている。また『愚管抄』は、この時代を代表する有名な著述である。
親鸞聖人の得度は、養和元(1181)年春、九歳で、彼の住坊で行われている。現在の粟田口の青蓮院にあたる。叔父範綱に介添えされて、範宴少納言公と名のったと述べている。「範宴」が法名、「少納言公」が公名(きみな)=貴族の子弟が出家したときの通称名である。
その際、正式の出家は十五歳以上だと断られると、夜半にも変わらず、その場で剃髪・得度式がおこなわれるのは、聖人の伝承の中でも有名である。その故事にならって、今でもお東では九歳で、お西では十五歳以上から得度となるが、西の得度式も、夕方から行われている。その時に詠まれたとのが、
「明日ありと 思うこころの 仇桜(あだざくら)
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
これに対して、慈円は歌を返しているとも伝えられているが、こちらは聖人の歌ほど有名にはなっていない。
「この山の 法の灯(ともしび) かかぐべし
末頼もしき 稚児の心根」(慈円の返歌)
いずれにせよ、両親の死去ではなく政変に巻き込まれたとしても、世の無常、虚仮不実を感じさせることが、幼い聖人の上に起こったのは事実で、九歳にして、ご両親と別れて厳しい出家の道を歩まれることになるのである。
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